ソファーで寝ている次男のそばで、

エリザベスカラーをしているワンコが寝ています。ギリギリ。

悩みましたが去勢手術をしました。

 

インフルエンザの季節ということで、

次男も寝込んでおりました。

私も看病で寝不足なのですが、

書ける言葉が降ってきている日なので

書こうと思います。

(書くというところまで行くのに数日かかります。。。)

 

ここ数年、私が関心を寄せいていることは

心というものの捉え方、です。

いろんな方がいろんな風に、心のセラピーであったり、ありのままであったり、今この瞬間であったり等、捉えては語っています。私もそういう一人です。誰かに伝える、ということよりも、とにかく自分が安心できるため!本当にそれだけでした。

 

不安症な家系なので

どうしてもそういうところのシナプスが太く?

なんでも心配し細かく考えて

それに振り回された行動をして疲れる。

このループを断ち切りたかったわけです。

 

そんな中、いつも思い出される不思議な出来事が二つあります。

一つは、ある日、突然庭の風景がキラキラと輝いて見えた日のこと。

二つ目は、その昔、一人暮らしを始めたばかりの時に自分が中に浮いたような全体になってしまったような感覚でパニックになったことです。

 

説明をすると長いので。。。

簡単に言うと、庭の輝きが見えた時は、自分の考えに疲れ果ててそれらが朽ち果ててしまったんでしょうね。それがなくなった時に、ふと見た庭は、今まで「考え」を通して見ていた草花ではなかったんです。全く本当の草花を見たわけです。本当に美しかった。

 

そして、二番目。

これは今も不思議なんです。

静かな一人暮らしの部屋でテレビをボーッと見ていたんです。

(多分内容は見てないような感じで)

そして、私は体とか部屋とかテレビとか他のすべての物やあるものと一緒に、自分がブワーッと存在しているような感じで、なかなかいつもの感覚に戻れず家を飛び出しました。しばらく戻らなくてクルクル回ってました。

 

これらは多分、

自分の考えとか、信じてるものとか

自分という個人的なすべてが

静かになった瞬間に起こることなんじゃないかと。

 

私が体調を崩した2月からの日々は

すべてのものが、意識を全体に戻すだけで

本当に輝き出すことを教えてくれました。

私という人がいろいろ考えないでただ見ると

世界はとっても美しくパーフェクトなんです。

倒れた時、がんばってきた稲垣涼子と母涼子と妻涼子を

すべて諦めるしか道はなかったから。

誰だっけ?私?

という毎日の中で見るすべては美しかった。

『私』という個人が頑張ると

全部、なんだかややこしいんです。

個人対個人、物、になってなんかややこしいってことはわかりました。

 

でも、こうしてインフルエンザとか

いろんな不安な要素って浮かんできます。

心配ってとっても重いんです。

胸のあたりとか胃のあたりで感じるでしょう?

実際に重くて痛いんです。

すると、どうしてもその痛みを感じないわけにいかない。

そういう思いを手放して

今を見つめることって本当に難しいんです。

 

ただ、でも。

ああ、不安があるんだなあ。

そう思うことは、全体へと戻るステップなんだろうと思います。

振り回されて疲れ果てて、パニックになることは避けられそうです。

 

いつも全体の中に溶けていられたらいいなあって

そんな風に思っていたら

歌う時は、声が全体。

そして、感情に振り回されることさえ

良しとしている!

それを表現としている!

心配の重みさえ表現としている。

わお!すごい。

 

歌はいつも全体。

そして表現はそれを良しとする自由。

全体だからいつも自由。

 

確かにレッスンの時は

私が誰かとか、こうしなくちゃいけないとか

そういうのはないなあ。

理論は引き出し。

全体からの表現。

あ〜、全体なんだね。