バランスチェアを愛用する私たち家族なのですが、最近ワンコまでハートしゃくれが一層際立つ位置でポージング音符めちゃかわいい。。。

 

さて。

この間、ウォーキングの途中でふとこんな言葉が浮かんできました。

 

 

「全ては、その余韻に在る。」

 

 

これは大発見でした。

つまり、表現する言葉を発見したという意味で、今まで感じていたことを言葉にすることができたなあという意味です。

 

どんな物でも、どんなアートでも、例えばおしゃべりであったり、人との触れ合いであったり、そういう何もかもが、その余韻の部分で互いにコミュニケートしているということです。

 

ここでは音楽表現に触れますね。

 

楽器でも歌でも表現が心に届くものってなんでしょうか?結局上手下手テクニックでしょうか?そうではないということはみなさん体感でご存知と思います。

演奏は下手なんだけど、なんかぐっとくるのよね。。。という言葉をよく耳にします。これは、その人の余韻のなせる技なんだと私は思います。

 

演奏の最後に余韻がない演奏者は楽譜の音符までで終了しています。でも、余韻というのはその実働(楽器の音や、声の実音)が停止した後、さらに広がる波紋のようなものです。

 

アクティブの後の静寂。沈黙。

これが、物言わぬ真の表現者!なんですよね。

余韻はその物自体をコントロールすることはできません。最初の実働(演奏)の状態で余韻の出方が変わります。池に石をどの程度で投げ入れるかで、その波紋の大きさが変わるように。

 

石をどんな風に投げたら余韻がうまく広がるでしょうか?

思いっきり?それとも軽く?

どんな気持ちで投げるか?それに通じて波紋も広がります。

 

自然のものたちに例えると、その表現方法が正しいのかよく分かります。自然界のものたちは本来の位置や大きさ強さのまま実働しています。だとすれば、私たちも本来のまんま、等身大でまずは表現してみることではないでしょうか?そして、その上で、「もっとこうなりたいんだ!」というエゴさえも表現してみたらいいんじゃないでしょうか?

 

表現はありのままから出発できれば、ずっと等身大ですウインク

例え、気取っていたってそうしたいと自分が分かっているなら等身大です。そうしたいという自分を認め、そのままの自分を表現しているのだから。

 

私だって、曲によってはめちゃくちゃ背伸びして歌います。

それは曲がそういうメッセージを送ってくるから、気持ちはそこへ持っていかれてしまうからです。本来の自分よりも大きな声を出すこともあります。でも全然いいんです。だって分かってやっているから。それは今そうしたいからやっていると。「私」という本質の部分が「いいよ!OK!GO!」そう言ってくれている。

 

問題なのは、本来の自分を見て見ぬふりをするために、自分以上以下の表現をすることです。そしてそれが「私」と言い張る。。。でも、それは、、、、自分を無視していることになる。それはとっても苦しい。体だって苦しい。喉だって。

 

だから。

「ちょっと今の自分より高いところを歌ってみよう!」とか今の自分から始めてみる。そうして歌いながら、いろんな『なりたい自分』を表現してみる。「あ!これ楽だな。」とか「あ、これは思ったより気持ちよくない。。。」って気がつくんですよね。時期や気持ち次第でその感覚はどんどん変わります。だから、それは自分の生き方とバッチリリンクしているんです。

 

私は、そうして今ここにたどり着いてます。

そして、これからも、そんな風にしてトライして探していきたいと思っています。

 

みなさんも、そんな気持ちで歌ってみませんか?

上手い下手とか関係ないし、ただ自分を知りたいから歌うでもいいんです。うちに来る方はプロでない方もいっぱいいますし、みんな素人さんですドキドキ

でも、歌うことや私との対話の中で、忘れていた子どもの頃のような「自分」を、自由を取り戻していかれます。

 

これはまさに私が辿ってきた道。

まさに今も辿っている道。

だから一緒にワクワクを探してみましょう。

そんなボイトレ多分他にないかも、、、、なんで(うふラブラブ)。

 

ではでは〜!