15年前の【夢】 | 緑間 玲貴(バレエ・アーティスト)ブログ

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沖縄県出身のバレエ・アーティスト 緑間 玲貴(みどりま りょうき) の活動を綴ります。

 

15年ほど前の仕事の「夢」の話。

 

バレエダンサーから、もう舞台を降りてバレエ教師に仕事を移行しようとして、駆け出していた矢先。

 

バレエの先生は私でなくても優れた舞踊教師が沢山いらっしゃるし…やはり舞踊の本質は、「舞踊だ」ということで、舞踊家の道を捨てられないという結論に至りました。

 

【緑間玲貴】の名前もいただいたわけですから、あまり深く考えず、自然な流れだったと思います。

 

個人事業主になった芸術人は、組織もなく(稽古場はありましたが)何者か名乗らなくてはいけないので、「バレエ・アーティスト」にしました。

 

バレエは芸術だからです。

 

名刺の肩書きをご覧になられた人が、何ですか?この仕事の内容は…と仰います。

これを言われるのが残念で仕方なかった。

 

だって、バレエは芸術だからです。

 

2005年あたりといえば、バレエコンクールが大ブームになるかならないかの直前。(もう始まっていたかも)

 

日本のバレエ教育といえば、結果が見えて分かりやすいバレエコンクールに躍起になっているように見えました。

 

作品を知らないけど、コンクールの踊りは踊る…とか、バレエテクニックだけを驚異的に誇張して踊って、オリンピックみたいに得点を狙ったり、順位を競い合ったり、優劣をつけたり…向いているとか、才能があるとかないとか…(笑)

 

基準が崩壊していて、バレエのほんの数パーセントしか理解していない、そして、そもそもバレエは芸術だという事を忘れている人が多かったように見受けられたわけです。(私の見方によるのでしょうが)

 

話を戻します。(笑)

 

バレエは芸術です。

人類の感得しうる普遍的な美を表現する特性を持ち、人種、⺠族国の壁を超えて拡大発展し続けるただ一つの舞踊として、20世紀に世界中に広がりを見せ、また、人が持つそれぞれの文化や⺠族性を表現するツールとして人類共有の芸術資源となりました。

 

日本がバレエに出会ったのは、明治時代です。以来日本のバレエは「何としてでもこの美しい舞踊芸術を日本に根付かせたい」という数万人に及ぶ先人の強い想いと共に、110年の時を経て現在、日本から羽ばたく自国文化のバレエとして華を咲かせるに至っているわけです。

 

私もこれに続きたい…とアレコレ思いはじめていました。

 

さて、どんな活動をしようか。

頭をよぎるのは、前例がないことばかり。

 

一番最初に考えついたのは、沖縄の文化アイデンティティの軸である首里城正殿前でバレエを踊ることでした。

 

しかし、そこには鉄の掟がありました。

首里城正殿は国営なのです。

外郭の首里城公園は県営で、お祭りでも何でもできますが、正殿エリアは国の管轄。

 

琉球の歴史文化に関わるもの、またはその再現以外のパフォーマンスは認められないし、基本的なガバナンスの一切が県にも首里城公園管理側にもない…という。

 

色々挑戦して、さまざまな人に会いましたが…国事イベントで、どうしてもそれが必要だと国が認めてくれなければ、首里城案は不可能という結論に至りました。

 

この時期、演劇制作を生業にする人とも、友人になり、首里城以外の数多くの企画を検討しましたが、全て場所でNG。

 

よく言われたのは、

 

1.「前例がない」

2.「企画のイメージができない」

3.「イメージは出来るが、無理だと思う」などでした。

 

ですから、諦めて忘れた遠い昔の夢は

「首里城でバレエを踊る」ということです。

 

不思議な事に、2012年に「ルミエール・ドゥ・レスト」を天河大辨財天社にバレエ公演として奉納するまで、全ての企画が立ち消えていったのでした。

 

だから、私のリクエストは、天地がひっくり返らないと叶わない。(笑)

 

首里城でバレエを踊るという、単純なこと。

 

それはきっと、琉球伝統芸能舞踊の島で、なぜかバレエに出会い、人生がバレエになった私が、自己のアイデンティティを確かめる為必要な事なのでした。

 

でも、それは絶対実現不可能、叶わないと言われた事であり、いつしか忘れていくしか、他にやりようがなかった事だったのでした。

 

 

これを読んでいる皆様にも、そんな夢ってありますか?