<永井荷風、
円地文子、
武田泰淳>
724「腕くらべ」
永井荷風
長編 中村光夫:解説 新潮文庫
花柳界小説を書いて天下一品の著者が、
新橋の芸妓駒代を主人公に、
彼女をめぐる様々な男性との情痴の諸相を描いた
一種の社会小説ともいえる長編。
若き日の荷風が
かつて江戸芸術の保護者としての夢をたくした花柳界が、
もはや時流から逸脱したユートピアではあり得ず、
秘密な歓楽の場所として
次第に単純な売色の巷に転化して行く様子を忌憚なく描いた
中期における代表作である。
<ウラスジ>
『濹東綺譚』 を読んでいた頃の
影響がまだあるので、
まずはこちらを。
例の<四畳半襖の下張裁判>がなくても、
この二作を見る(?)かぎり、
この時点での私の<永井荷風像>は、
エロチカ文学の象徴のような人物でした。
折しも、作家の写真集かなにかで、
浅草のストリップ劇場の楽屋で、
裸の踊り子さんたちのなかで、
やにさがっている一枚の写真を見た日にゃあ、
どうしたって、単なるスケベエ爺の体たらく――。
「ふらんす」も「あめりか」も知らず、
荷風の全貌らしきものを窺い知るようになるのは、
もっと先のことになります。
ちなみに、直近で読んだ荷風の作品は、
「おかめ笹」。
これは、いけた。
725「朱を奪うもの」 谷崎賞受賞作
円地文子
長編 奥野健男:解説 新潮文庫
朱の色を侵蝕する紫にも似た、女の成熟の秘密……。
性のめざめから、冒険的恋愛の嵐たる青春をへて、
見合い結婚の初夜にいたるひと筋の道程で、
女の中に着実に形成されてゆく、妖しい美しさや恐ろしさを、
あたかも肌に感じさせるかのように、明確な筆にとらえてゆく。
冷然と凝視し、大胆で香り高い自伝的長編小説であり、
発表されるや、ひときわ当時の文壇の注目を集めた作品。
朱の色を侵蝕する紫にも似た、
女の成熟の秘密……。
大胆で香り高い自伝的長編小説。
<新潮社:書誌情報>
『朱を奪うもの』の『朱』とはなんぞや。
何やら、”女性” や ”女子” を
感覚的に捉える時に使われる<色>のような。
この小説は
他の女流作家によって書かれたことのなかった
女性の「ヴィタ・セクスアリス」である。
宗像滋子という女性が、どのような環境で、
どのようなリビドー形態を形成したかを、
極めて冷静に自覚的、分析的に描いている。
ぼくは三島由紀夫の「仮面の告白」と共に、
リビドーの形成過程を描いた、
日本が世界に誇るべき文学だと思う。
三島が完全にフィクショナルな告白を志したと言いながら、
実は自己の性体験の本質を描いているように、
この作品も自伝ではないと言いながら、
自己の性体験の本質をついている。
ここに描かれているのは性体験の現象ではなく、
その底にある本質なのだ。
そこには従来の日本の私小説には望めなかった、
完璧な自己分析と、表現がある。
<奥野健男:解説より>
多少長くなりましたが、この解説はそれこそ、
『朱を奪うもの』の本質をついている、と思われますので、
そのまま載せさせていただきました。
三島由紀夫の『仮面の告白』についてはこちらをどうぞ。
優等生の総帥、
勲章を受けるに値する女流作家――。
こんな言い方は失礼ですが、
眼鏡と和服のイメージが強く、
知的な印象を与える<女子>の象徴のような円地文子が、
こんなあられもない ”性の遍歴もの” を書くなんて――。
いや、岡本かの子ならOKとかじゃありません。
尾崎翠とか。
また、
現在の女流なら、
キレッキレッの文章で描いてのけるでしょうが。
初期の山田詠美さんとか、ね。
松浦理英子さんとか。
でも、あの円地文子が――。
それはともかく。
文学者の自伝めいたものを読むときのお楽しみ。
今まで、どんな作家、どんな作品を読んできたのか。
――ゴールズワージーやハウプトマンの戯曲、
トルストイやドストイェフスキーの小説を読みふける中に
人道主義的なものから社会主義の世界への憧憬に変って行った。
『ハウプトマン』 の名が出るあたりが、
もともと芝居から入った人、という感じがします。
(時代的に社会主義からは逃れられない知識人、
といった一面も)
この他、谷崎潤一郎や永井荷風。
文学少女にはちと問題のありそうな、
<取り扱い注意>の作家に魅かれたようで……。
だからこその、
『朱を奪うもの』の成立、と言ったところでしょうか。
少女期の、何に興奮するかを分析するところ、
稲垣足穂にも通じるような。
当然、『V感覚』か。
<余談>
高校の古典の先生が、
当時(1972年ごろで、あってるかな?)、
新たなる現代語訳として出版された
円地文子版『源氏物語』を、
非常に高く評価されていたことを覚えています。
谷崎訳は冗長で、与謝野晶子訳は端折り気味で、
円地訳はほぼパーフェクトに近い、とか。
ちなみに、私はこの後、
谷崎潤一郎と与謝野晶子の現代語訳で、
『源氏物語』 を読むことになります。
もう一つ、この先生は親しみを込めて、
「円地さん」
と仰っていましたが、それは、
「えんちさん」 ではなく、
「えんぢさん」 と発音しておられました。
おかげで、長いあいだ、
『円地文子』 は私にとって、
『えんぢふみこ(えんじふみこ)』 でした。
726「『愛』のかたち・
才子佳人」
武田泰淳
短編集 佐々木基一:解説 新潮文庫
収録作品
1.「愛」のかたち
2.もの食う女
3.女賊の哲学
4.人間以外の女
5.才子佳人
上海でのなまなましい敗戦体験の直後に執筆され、
新たな戦後派文学の登場を告げた初期作品5編を収録。
究極において互いに不可解な一点を持ちあった
男女の四角関係を描いた
『「愛」のかたち』『もの食う女』 など、
いずれも愛の問題を主題としているが、
生命感あふれる愛のみずみずしさと、
革命と戦争の深い体験からにじみ出る暗い苦渋のかげりとが、
混沌とした世界を形成している。
<ウラスジ>
武田泰淳、二度目の登場。
そして今のところ、最後の登場。
この作品集も、戦後の日本から、中国の説話まで、
いろんなものに材を取って編まれています。
『「愛」のかたち』
光雄にとっては、「愛」と言うより「性」のかたち。
それを承知で、いずれは変えてみせようという
町子のエゴと自信が垣間見えるが……。
光雄とMが重なる。
女ひとりに時を違えて三人の男。
最終的に、【かたち】になってないような。
『才子佳人』」
”頭脳明晰な男と、容姿端麗な女との理想的なカップル”
を表わす四字熟語、ということで、<中国風>。
しかし、旦那の方が 『才子」 と違っていて、
嫁さんの方も 「佳人の宿命」 だとか鼻に付く物言いをする。
『唐代伝奇集』、『聊斎志異」から駒田信二まで、
どこにそんな説話が存在しているのか。
教訓めいたものなんてありゃしない。
このあたりの ”ひねり技” が
武田泰淳の醍醐味らしい。
私が個人的に好きなのは、『もの食う女』。
「オッパイに接吻したい!」
と言って、それを叶えてくれる女性。
スタインベックの 『怒りの葡萄』 と違って、
妙に生々しく、エロティックでした。
<余談>
武田泰淳のイメージは、”あごひげ”。
”あごひげ”
と言えば、武田泰淳と次元大介。
にしても、奥さんの武田百合子さんは美人ですねえ……。
泰淳が描く現代物には、少なからず、
彼女のことが反映されているらしい……。