周~漢にかけての記載をまとめました。
・武王が紂を滅ぼすと、肅愼が来て石砮と楛矢を献上した。
・管叔鮮と蔡叔度は周に叛いて、夷狄を招いて誘う。周公は彼らを征伐し、遂に東夷を平定した。
(尚書には、武王が崩じて三監と淮夷が叛き、周公は王命を作ってこれを討った。又言う、成王が即位し、管叔鮮と蔡叔度を征伐して淮夷を滅ぼしたとあります)
・康王の時、肅愼はまたやってきた
・穆王の時、徐夷が王を称して、九夷を率い、宗周を征伐する為、西の河の畔に至った。穆王は畏れて、東方諸侯を分けて、徐の偃王に命じて東方諸侯の主とした。
・穆王は、楚の文王に命じて、徐を討たせた。徐の偃王は北に逃げた。
・厲王の時、淮夷は入寇した。虢仲に命じてこれを討たすも勝つことはできなかった。
・宣王の時、召公に命じて討伐させ、淮夷を平定した
・幽王の時、四夷は代わる代わる侵攻した。
・斉の桓公が覇者となったので、攘ってこれを後退させた
・楚の霊王が申の地で会盟すると、また来て会盟にかかわった
(左傳には、楚の霊王は蔡侯、陳侯、鄭伯、許男、淮夷と申の地で会盟した、とある)
・越は琅邪に遷り、共に征戦した。遂に諸侯の国々を陵暴し、小国に侵攻し滅ぼした。
・秦が六国を滅ぼして、中国を統一する。淮夷、泗夷はちりぢりに なってなくなり民になった。
・陳勝が兵を起こし、天下は崩潰した。燕人の衛満は朝鮮に逃げてそこで朝鮮国の王になった
(前書より、燕王・盧綰が叛いて、匈奴に入った。衛満は亡命するため東に走り浿水を渡って、秦の故地であった空地に拠点を置いた。次第に朝鮮や蠻夷及び昔の燕や齊の亡命者を配下にして、王となり都を王險に定めた。)
・武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、ここで東夷が始めて中国と通じるようになった。
・王莽が簒奪した時、貊人が国境を寇した
・建武の初め、また東夷が来て朝貢した。時の遼東太守祭肜は威を北方に畏れられ、名声は海を渡った。ここで濊貊、倭、韓は一万里を越えて朝献した。
・章帝、和帝以後は、贈り物を持って訪問してくるのが定期的になった。
・永初の多難におよんで、始めて寇鈔するようになった。
・桓帝、霊帝は失政して、ようやく勢力が盛んになった。
建武(25~56年)の始めに濊貊、倭、韓は一万里を越えて朝献したとあります。ここで倭が初めて出てきました。始めというので25~30年くらいでしょうか。
徐の偃王の誕生の話は、高句麗の始祖・東明と同様に卵から産まれて、動物に守られています。原型はこの偃王の話でしょうか。偃王は仁だったので、楚との戦いを拒否して国を滅ぼしてしまったとあります。理想に走ると国を滅ぼしてしまった典型でしょう。非戦といっても相手には関係ないことです。