按針祭」は、徳川家康の外交顧問・三浦按針(英国人:ウィリアム・アダムス)が、伊東の松川河口で日本最初の洋式帆船を建造したことを記念したお祭りである。

 

 2024年は、8月8日(木)~10日(土)の3日間を中心に伊東市内では多彩なイベントが開催されフ、ィナーレを飾るのが、「伊東按針祭海の花火大会」だ。

約10,000発が打ち上がる!伊豆一番の花火大会、伊東市の「按針祭」ってどんなお祭り?

(按針祭花火大会:伊豆伊東観光ガイドから)

 

 約10,000発の花火が会場5ヵ所から同時に打ち上がる壮観なもので、ご当地最大のイベントになる。今回はこの祭りに因んで、按針ことウイリアム・アダムズのことに触れてみようと思う。

 

 今から400年ほど前、1600年(慶長3年)4月19日、豊後(ぶんご)(大分県)・臼杵(うすき)の海岸に1隻の西洋帆船が漂着した。2年ほど前にロッテルダムを出航したオランダ船リーフデ号である。

undefined

(復元されたリーフデ号:ウイキペディアから)

 

 この時、乗船していたウィリアム・アダムスは日本を訪れた初めての英国人だった。彼はこののち日本社会に溶け込みながら、家康の外交顧問に登用されるなど、数奇な運命を辿ることになる。

 

 ウィリアム・アダムスは1564年、英国のケント州ジリンガムの町で生まれた。12歳のときにロンドンに近いライムハウスに移り有名な造船家のニコラス・ディギンズのもとで、航海士と船大工の修業を積むことになる。

(ウイリアム・アダムズ:伊豆伊東観光ガイドから)

 

 アダムスはメアリー・ハインという女性と結婚し、後に2人の子供に恵まれることになる。東インドの香料諸島に向けて遠征隊が派遣されることを耳にした彼は迷うことなく契約書にサインをした。

 

 エリザベス朝の大航海時代にあって、冒険者である海の男たちがそうであったように、彼もまた危険を承知でこれに参加したのである。時に34歳だった。

 

1598年6月、5隻の船団はロッテルダムを出航した。リーフデ号は350トン、乗員110名ほどだった。意気揚々と船出した彼らではあったが、アフリカ大陸沖を航行中に船員の多くが水や食糧不足のために病気にかかってしまう。

 

 南米最南端のマゼラン海峡に到達したのは1599年4月、オランダ出航10ヶ月後のことで、飢えた乗組員達はペンギンを捕えてはこれを食糧としたのである。1600年(慶長5年)4月19日、豊後・佐志生(さしう 現大分県臼杵市)の海岸にボロボロの大型帆船リーフデ号が漂着した。

 

 アダムスの記録では24人の乗組員は壊血病に罹っており、立つことができたのは6人しかいなかったという。漂着の9日後に日本の大君は使いをよこし我々を召し出した、と記録にある。

undefined

(徳川家康像:ウイキペディアから)

 

 いよいよ、アダムスは漂流者を代表して家康に拝謁することになったのだった。通訳をイエズス会の宣教師が務めたにもかかわらず、家康は超然としたアダムスに何らかの好感を持ったのであろう。

 

 スペイン・ポルトガルとオランダとの対立など、キリスト教の世界が二分されていること、また、マゼラン海峡を通過しての日本までの航海にもかなり興味を引いたものと思われる。

 

 その間もイエズス会サイドは彼らの処刑を強く求めたのだった。それでも家康はイエズス会の願いを退けてアダムス達の命を救い、日本に留め於いて造船技術や操舵技術などに利用しようと考えたのであった。

 

 そしてついに軟禁を解かれて、リーフデ号の乗組員と再会することができたのである。関ケ原の戦いに勝利した家康は名実ともに天下人になった。彼はアダムスを側において、次第に外交顧問のように利用していったのである。

 

 この結果、従来のスペイン・ポルトガルといったカトリック教国からオランダ・イギリスという新教国へと舵が切られるという外交方針の大転換をもたらすことになるのであった。

松川に造船所が作られたと言われています。

(伊東・松川のほとりに造船所があったらしい:伊豆伊東観光ガイドから)

 

 1604年、アダムスは家康の命で伊豆・伊東で日本初の西洋帆船の建造に着手した。最初の船は80t、続いて120tのものも建造したのである。後にスペインのマニラ総督がノビスパン(メキシコ)へ帰国の途上に難破した際に、このアダムスの作った120tの船で帰国させたのであった。

(120tの船 ブエナ・ベンツーラ号:伊豆伊東観光ガイドから))

 

 こうして家康に気に入られた彼は江戸日本橋に屋敷のほかに、相模国三浦郡の逸見村(へみむら)に220石(後に検地で250石)の領地と80~90人の家来を与えられて、三浦按(みうらあん)(じん)と名乗り旗本の身分に取り立てられた

 

 その後、彼は日本橋大伝馬町の名主、馬込(まごめ)()()()の娘お雪と結婚して、後に長男ジョセフ、長女スザンナの2人の子を授かったのだった。その後、帰国願いは許可されたものの、日本に残る道を選んだのである。

 

 領地を持ち2人の子供もいることや、帰るのには貯えが少なかったこともあると思われる。1616年7月、ようやくシャム渡航から戻ったアダムスは家康が亡くなったことを知らされた。

 

 彼は直ちに商館長コックスを伴って、将軍秀忠に弔意を述べるとともに貿易の許可を求めて江戸へ向かった。秀忠は貿易は許可したものの、これを平戸と長崎に限定して、江戸や大阪での商売は禁止した。

 

 さらにそれまでは同じ新教国として比較的仲の良かった英蘭間の対立や、イギリス商館の経営が悪化してきたのである。このころからアダムスは体調を崩した。病名は不明だが、コーチシナからの帰国後に発病したようである。

 

 1620年5月6日、アダムスはその波乱に満ちた生涯を平戸で閉じた。日本での暮らしは20年に及び、まだ享年56歳の若さだった。

塚山公園にある「三浦安針墓」。

(横須賀にある按針の供養塔:ウイキペディアから)

 

 一方、彼の活躍が日本の外交を南蛮人(スペイン・ポルトガル)から紅毛人(イギリス・オランダ)へと舵を切り、彼の死をもってオランダに集約することになってゆく。

 

 按針祭と聞いても三浦按針のことを思い起こす人は少ないに違いない。400年前に確かにこの男が海の向こうからやってきた。そして日本史にとてつもなく大きな影響を与えたのである。

 

 この物語は多くの人に勇気と感動を与えてくれるものであり、日本史だけでなくもっと読まれてほしいと願う次第である。(了)