「Indigo」を聞いて、その他のナムジュンのインタビューなどを見て、私が思うことは。

 

つくづくこの人が「アイドル」という職業を選んだってことが不思議でならないし、これを奇跡というのか、でももしかしたら必然だったのかもしれないし、ただの偶然だったのかもしれないし、運命の悪戯だったのかもしれないし、あぁ、でもなんだろう、やっぱり奇跡なのかな。

 

てんでバラバラだとナムジュンが言った通り、この10曲は全部が全然違う、音楽のことは詳しくないけれど、テイストからビートから手法からテーマから、全然違うのに、RMというフィルターを通してまとまっていくような、繋がっているような。

 

単色であった「mono.」から藍という一括りでありながらグラデーションのある色

ネーミングといい、アルバムの構成や内容といい、なんてうまいんだ、と一本取られた感じです。

 

ホソクが最初から最後まで一貫して変えることなくトータルで自分の見せたいJ-HOPEなのであったのに対して、ナムジュンは最初から最後まで自分の中のRMだったように思う。

 

いづれもアイドルという職業を約10年してきて、その間の成長と共に自分の中に生まれてくる感情や葛藤や周囲との兼ね合いに苦しんでいることからの解放を願っているように感じるけれど、そのアプローチの仕方の違いが明白で、これはもしかしたら全員分聞くことになったら大変なことになるぞ、と怖くもなり、期待感も大きくなってしまう。

 

でもそう思いながらも、どこかで誰かはこういうアプローチなんかじゃなく、もっと他者のプロデュースを素直に受け切る作品も見せてくれたら良いのに、とも思う。(ジョングクとかフルプロデュース受けてみて欲しいなぁ、って個人的には思ったり)

 

「Indigo」の話に戻そう。

 

最初にラインナップを見た時に驚きましたよね?

(with〇〇)の多さに。

withっていいですよね、なんかこれだけでナムジュンの一緒に作業してくれたアーティストたちへの感謝と愛情が伝わってきます。

同じ気持ちでこの曲を作ってくれたことへの気持ち。

その後のアーティストたちからのナムジュンへのコメントやお手紙なんかを見ても本当に良い作業が出来たんだなぁ、ってつくづく思う。

 

今回女性アーティストが多かったのには、どんな感じになるんだろう、ってワクワクしたし、実際に聞いてみて、ナムジュンの少し掠れた声と女性ヴォーカルの澄んだ声のパターンも、ナムジュンの強いラップとそれよりももっとインパクトのある強いヴォーカルの組み合わせも、どっちも素敵すぎて引き込まれました。

 

ナムジュンがこれほどヴォーカルを取るとも想像もしておらずそれにも驚いたけれど素敵だったし、大事な部分に他のアーティストのパートを多く入れたのにも驚いた。

 

でも聞いていけばいくほど、その言葉を誰かに言って欲しかったからなんだと思った。

それはリスナーに対してじゃなく、そう、ナムジュン本人が。

 

自分が伝えるよりもよりリスナーに伝わるように、とナムジュンは言うけれど、私はそう思った。

 

だから、順に追っていけば、ナムジュンが伝えたい言葉でもあり、ナムジュンが言って欲しかった言葉がより浮き彫りになるんじゃないかなぁと思う。

 

全部の曲に対して書きたいけれど、あまりにそれはウザいと思うので、タイトル曲について書こうと思う。(とはいえただの感想)

 

 

「들꽃놀이/Wild Flower」は誰かのためじゃなく、本当に自分の想いだけを綴った曲なんだと思う。

 

「最も個人的なことを最も普遍的に話すことが最も高い境地だと思う」

 

の言葉の通り、10曲の中で最も何も狙っておらず、大きなテーマや瞬発的に起こった大きな事柄もなく、特定のシチュエーションもなく、ただただ心に秘める切なさや苦しみや重荷や迷いを敢えて飾らずストレートに歌詞にぶつけたように感じるこの曲が、結局は最も個人的なのに多くの人に共感を得る曲になったのではないかと思う。

 

ナムジュンと同じ境遇になるのは願ったところでとても難しいけれど、一般人の私でも彼がこの曲の中で吐露した感情は多かれ少なかれ生きていたら感じるもので、誰もがその自分の中の自分に対する思いに押しつぶされそうになる時がある。

 

 花火になりたかった。というのもまた衝撃で。

 

人々の心に衝撃を与えるような華やかなアーティストになりたかったのか。

 

それとも。

 

パッと咲いて跡形もなく散りたかったのか。

 

それとも。

 

自分の心は野原に置いたままぼんやりと、高く高く上がり爆発して散っていく花火を見ていたのだろうか。

 

 

 

それと対照的に描かれる「野原」。

ナムジュンがイメージしていた野原が荒れ果てた野原だったことに驚いたけれど、たとえ荒れ果てていても野原には希望がある、と思う。

 

荒れ果てたとえ焼け野原になってもしばらくたてばまた草木は芽吹く。

花火は咲いて散って仕舞えば残るのは残骸だけだが、荒れ果てた野原からはそこからまた生命の息吹が起こる。

 

時が来たらまた息を吹き返し、花を咲かせ、種子を作り、また土に還り次の芽の栄養となり、また次の芽が出る。

 

ナムジュンは「Indigo」ですべてを曝け出し、本来いたはずの野原ですら焼き払ったのではないか、と思う。
 

「들꽃놀이/Wild Flower」は圧倒的な作者の心の叫びであるし、他者への思いやりや優しさなど皆無でむしろ挫折感や絶望感すらあるのに、聴いているとなぜだか力強い生命力を感じる。

 

散って仕舞えば終わり、の花火とは違う。

枯れても焼かれても生命は続いていく。

 

 

だからこの曲に希望があるように私は感じるのだと思う。
 

 

全編の歌詞を読んで私が印象的に感じるワードは「変化」。

 

人は変わっていく。

 

過去の発言や、Wikipediaで勝手に書かれる経歴。

実際の自分はもうそこにはいないのに。

 

そんな苦しみが多く歌詞に登場するように感じる。

 

でも、その一方で。

 

変わりたくない。

変わっていないのに。

 

という感情が溢れているように感じるのは私だけかな。

 

これをうまく表現できそうにないのだけれど、その相反する感情がまさに今の作者そのものなのかもしれないなぁ、と思ったりするし、この悲しいとも切ないとも苦しいとも悔しいとも憎いとも違う感情がまさに、同じ蒼なのに、ひとつとして同じ色は出ない、藍(Indigo)そのものだなぁ、と思ったりもする。

 

藍染は言わずもがな、自然の力で染める手法です。

だからこそ仕込む甕によっても違いが出るし、染めたあとも経年するごとに色合いや風合いが変わっていく。

そうやってその変化を長く楽しむのも藍の醍醐味であり、「藍は生きている」と言われる所以でもあります。

 

 

「あなたの声を聞かせて欲しい」

というセリフは、ナムジュンの国連でのスピーチで聞いたものだけれど、それ以外の場所でも度々同じようなことを言う。

 

「ファンの皆さん一人一人に聞いてみたい」

 

実際にはそんなことできるわけねーだろ、ってことだけど、結構な頻度で言うのだから、ナムジュンは本当に思っているのだと思う。

 

でもきっとその前に自分の想いをもっと正直に、もっと誠実に、もっとあけすけに私たちに伝えたかったのではないか、と思う。

 

そのためには、相手にだけ求めるのではなく、まずは自分に問う。

あるいは、相手に求める前に、自分の答えを先に披露する。

 

自分の気持ちを、自分の考えを、自分自身の心の有様を。

 

だからこのアルバムを聴いたあとに私は感じる。

 

君は?

どう感じてる?

君は?

どう生きてるの?

 

と。

 

これもきっと聴いたばかりの今と、しばらく経ってからでは感じ方が違うのだろうと思う。

 

ナムジュンが望んだように、リスナーの心の中に長く留まって、藍がその変化を楽しむように、自分の感情の変化も楽しみたいと思う。