前記事、「【祝】MAMA2019 9冠」を投稿したのち、しばらくブログから離れていた(つまりはエグいくらい仕事をしていまして。泣。普段は横目で携帯見れるくらいなのに)ところ、たくさんのコメントが寄せられていて大変驚きました。
みなさま、お気持ちを書き込んでくださってありがとうございます。
(お返事が個別には出来ていなくて申し訳ないのですが、ちゃんと全部丁寧に読ませていただいています。)
あの数は、きっと普段はコメントが苦手であったり、面倒だったりする方も、思わず書き込んでしまったのではないかと思える数で、それはすなわち、読んでくださるみなさまの心を、良きにしろ悪きにしろ乱した結果であると思います。
実は・・・こんな長文独り言ブログにもフォロワーさんが増えているんです。(驚きしかない)
フォローはせずとも読んでくださっている方もいらっしゃるかもしれませんし、通りすがりにあの記事を読んでくださった方もいらっしゃると思います。
みなさん、本当にありがとうございます。
いろんなお気持ちいただきました。
思うところがあってもコメントを書き込まない方もいらっしゃると思うし、それを含めるともっとさまざまな感情があったと思います。
私が個人的に思うことを書き、ブログという媒体にアップし、それを読まれた方がコメントをくださることで見えてくるものがあって、とても興味深い経験になりました。
単に私が個人の日記帳にしたためていただけならば、こんなことは起こらないので。
今現在で、なんと65件のコメントを寄せられています。(マジで驚)
すべてのコメントをしっかり読み興味深く感じることは、内容にまつわるメンバーに対する気持ちを書いてくださるだけでなく、私のことについて書いてくださる方が多いことです。
私はBTSのことしか書いていないのに、コメントをくださる方はBTSのことだけでなく私のことまで書いて返してくださる。
顔も知らない、本名も年齢も住所もなんなら性別ですらわからない、ただブログを勝手に書いている人に対して、これってすごいことで、光栄だし嬉しいことです。
以前、このブログを読んでいるアミではない友人(読まないで!って言ったのに)が、私に「あんたさん、ブログの中ではえろうええ人と思われてはるんやねぇ」とわざとオールドスタイルの京都弁でニヤニヤしながら言ってきて、とてもとても恥ずかしかったのですが、確かに
「ブログの中の私」
とはどのように見られているのか、が今回のことで浮き彫りになったと思うのです。
65もあるコメントには、まずは65通りのメンバーへの愛があって、それも1人として全く同じものはないと思います。
その中で、私のことについて触れてくださる部分についても同様で。
他人の書いたブログについた、これまた他人が書いたコメントを、みなさんはどれくらい読んでいらっしゃるかわかりませんが(だからってわざわざ読みに行かれなくても全然大丈夫です)、そこに一緒に描かれる「私」という人物像が受け取る方によって違うのだなぁ、と本当に興味深く読みました。
「私」が1人で書いた文章が、「私」の思いを受け取るだけでなく、その書き手である「私の人物像」まで想像させるものだとわかったからです。
人間って素晴らしくて、目や耳から入った情報から脳でイメージを作り、足りない情報を想像で補完するんですよね。
ラジオのパーソナリティーや声優さんなど、声だけをずっと聴いていた人の顔を初めて見た時、「あれ?なんか違う?」ってなったことありませんか?
小説で読んでいた本が実写化されて選ばれた俳優を見て「主人公はこの顔じゃない」ってなったりしませんか?
初対面の方がマスクを外されると、「あれ?思ってたのと違う」ってなることがコロナで増えてません?(私、結構あります)
想像しようとは思っていなくても、自然に想像して見たり読んでいるんですよね。
なのでこのブログという文章しかない媒体でも、内容もBTSに偏っているけれども、知らず知らずに「rvrvとはこんな人だろう」と想像して読んでいらっしゃるのだと思います。
だとしたら文章とはいかに素晴らしいものであるか、あらためて言葉の面白さを知った次第です。
もちろん私はブログを書くにあたって、自分の話をしようとは思ってもいませんし、ただただ日々7人と共に過ごしながら、考えたこと、思ったこと、泣いたこと、笑ったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、そんな感情を言葉にしただけなのですが、そこに私の人間性が漏れ出てしまっているのだなぁ、と思います。
やたら感傷的になる私も
どうでもいいことに拘っている私も
細かいところに目くじらを立てている私も
斜に構えているのがかっこいいと思っている私も
はしゃいでいる私も
冷静な私も
テヒョンの感性をわかってあげていない私も
推しにああして欲しいこうして欲しいとわがままを言う私も
愛情深くメンバーを見守る私も
どうでもいい考察をする私も
来るお別れに恐怖する私も
みなさんからいただいたコメントの中にある「私」の中には「私の知らない私」もありますし、「そう思われたくない私」もありますし、「えー、そんな風に思われちゃうの?の私」もありますが、でもそれは「私の知らない本当の私」なのかもしれないと思ったのです。
日本語はご存知の通り、直接的な表現、白黒ハッキリつきすぎる表現をさけ、行間を読むことが美徳とされています(最近は違うのかも)。
だから、知らず知らずにその行間に自分の思いを紛れ込ませているのかもしれません。
それが文章や言葉選びから漏れ出て、イメージとなって相手に伝わるのだと思います。
そのことに気がついた時、これが周りの人が感じる「ブログの中の私」であり、たとえそれがダメージを喰らうような厳しいものでも、現実とはかけ離れた身に余る褒め言葉でも、素直に受け止めようと思ったのです。
「真面目か!!」って言われそうなえらく固い話となってしまいましたが、結論としては、ご心配をくださった方々には感謝しかありませんし、私はこれからもブログを書いていきたいと今は思っていますし、コメントも楽しみに読んでいますし、気持ちの乱高下は推しのいる醍醐味だと思っているドMなファンですし、なにより7人が大好きです。
そしてみなさんがどんな私を想像しようとも、きっとそれは私です。
実際に会ったら「思てたんと違う〜!」って100%なると思いますが、そんな私をこれからもよろしくお願いします。(「私」何回書いたんや〜)