訓要十条(くんようじゅうじょう フンヨシプチョ)
第12話に「訓要十条」が出て来ましたね。
参考文献1によると、「後代の高麗王達がとるべき政策の方向を示した遺訓であり、高麗の建国精神を示したこの遺訓には、新羅末期に盛んだった儒教、仏教、風水地理思想を取り入れ、主体的で道徳的な富国安民の国家を建設するのだという意思が見えている。このような政治理念は、弓裔(クンイエ 後高句麗の王)や甄萱(キョヌン 後百済の始祖)には見ることのできないものであり、王建の下に多くの進歩的な知識人が集まっていたことを示している、「訓要十条」は、太祖以降に作られたとする説もある」とのことです。
「訓要十条」の概要は以下の通りですが、『月の恋人―歩歩驚心:麗(ボボギョンシム:リョ)』高麗の都 開城(開京)1に書いたように参考文献2では、旧後百済の地に対する差別に関することは、第八条と書かれていますが、参考文献1・Wikipedia「太祖高麗」では9条になっています。
①仏の力で国を立てたる上は寺院を奪い合うことなかれ。
②道詵(トソン 注1)の風水思想に合致させて寺院を建立し、妄りに建立することなかれ。
③王位は長男が世襲する事を原則とし、長男が賢くなくば他の息子のうちより臣下の推戴を受けたる者を王位に就かしむべし。
④わが国は方土と人性が中国と異なるゆえ、必ずしも中国文化に従う必要なし。契丹は言語と風俗の異なる獣のごとき国ゆえ、その制度を入るることなかれ。
⑤風水思想を尊び、西京を中心とすべし。
⑥燃燈会(ヨンドンフェ)と八関会(パルグァンフェ)を誠実に執り行うべし。
⑦諌言に従い、讒言を遠ざけ、臣民の支持を得るべし。
⑧農民の徭易と税を軽くし、民心を得て富国安民をもたらすべし。
⑨車峴(チャヒョン 車嶺山脈)と公州江(コンジュガン 錦江)以南は山川と人心が背逆ゆえ、彼地の人を登用するなかれ。
⑩経史を広く読み、古を鏡として今を戒むべし。(参考文献1・2)
①は、参考文献2によると、寺社の勢力が大きくなることを心配し、もしも「後世に姦臣が政権を執り、僧徒の請によって寺社を営むことになれば、寺社がたがいに争うことになるので、これは切に禁じるが宜(よ)い」と記した。
王建の警(いまし)めを守ったためか、王建の死後寺社同志が覇を争うことはなかったが、高麗末には権力の座に座った高僧らの乱行が目立ち、地の徳を失い、国が滅んでしまった。王建はそのようになることを戒めとせよといい、地の徳を失わない程度に寺社の創建を許しなさい、地の徳は、道詵が占うところの風水説に従えと言い残したのだということです。
⑨の理由については、参考文献2では、本ブログの「『月の恋人―歩歩驚心:麗(ボボギョンシム:リョ)』高麗の都 開城(開京)1」に書いたように後百済のような悲劇を繰り返すまいということが理由であるとしているが、参考文献1では、後百済の統合に非常な困難がともなったという経験を踏まえたものであろうとしており、そのように書かれている本が他にも何冊かありました。
④の契丹は、4世紀頃から14世紀まで、遼河(りょうが)上流から中央アジアにかけての地域に居住していた民族。10世紀から12世紀にかけては遼(りょう)を建国し、中国北部を支配して初の征服王朝を築いたほか、高麗にしばしば侵攻を行った。(参考文献4)
高麗は高句麗の継承を理念にしていたので同胞民族の国である渤海(ぼっかい パレ 注2)を滅ぼした勢力として契丹を非常に嫌っていた。
契丹の太祖25年(942)、契丹は中国を占有するにあたって、後顧の憂いをなくすため、まず高麗と親善関係を結ぼうと、使節とラクダ50頭を贈って来たが、王建は、使節30人を島流しにし、ラクダは餓死させた。(参考文献4・5)
高麗の官僚達は契丹を北方の野蛮人として見ていたが、実際の遼は、滅ぼした渤海遺民も国民として迎え入れ、吸収した民族の気質に合わせた体系で統治を行った。仏教を尊崇し、宋の文化を取り入れ、一方で独自の文字である契丹文字を開発して民族意識を高めるなど、ある意味高麗より革新的、融和的な国家政策を講じていた。(参考文献6)
使節やラクダに罪はないのに、王建の仕打ちは酷過ぎるのでは?特にラクダは、ひと思いに殺すならまだしも、餓死させてしまうなんて、かわいそう!見せしめのつもりでしょうか?しかし、当時の人と現代人では、動物に対する感情なども違うのでしょうね。動物愛護などと言われるようになったのは、最近のことだし。
ラクダ50頭という契丹の贈答品セレクトにも首を傾げますね。朝鮮半島にはいない珍しい動物だからと数頭贈って来るならまだしも50頭も一度に送ってきたのは、何故?隊商でも作れというのでしょうか?砂漠の国には、ラクダを富の象徴とし、数多く所有することがステイタスとされる国もあるそうですが、山がちの高麗の風土には合わないでしょう。朝鮮半島には小型の馬しかいなかったそうなので、西域の立派な馬でも贈った方が喜んだのではないかと思いますが、高麗の事情に疎かったのだろうか。
ドラマで、2代王恵宗〔ヘジョン 王武(ワン・ム)〕の娘(ワン・ソの姪、後の妻、慶和宮夫人 参考文献6)やファンボ・ヨンファが契丹に嫁ぐのをあんなに嫌がっていたのは、契丹を極度に嫌う王建の影響を受けて育ったからでしょうか?
王建がむやみに中国のマネをする必要はないと言ったのは、正しい教えだったが、中国と接した半島国家である朝鮮半島には、次から次へと中国から伝わるさまざまな制度・文化等を模倣する傾向が強かったようです。
しかし、朝鮮半島の歴史に批判的な本には、中国の制度や文化をそっくり模倣したのがコリア民族の人達の不幸の元であると書かれているものが少なくありません。それに対し、中国との間を隔てる海が存在したことから、日本では、朝鮮半島ほど中国の影響を受けることがなく、日本に合わないものは取り入れず、取り入れたものも日本風に改変したのが幸いだったと言われています。(参考文献1・6・7他)
朝鮮半島が中国から取り入れたものの中でも、特に批判の対象となっているのが儒教・科挙・中央集権制・宦官などです。(参考文献9・10他)
特に儒教は、朝鮮の近代化を阻害した諸悪の根源のように言う人も多く、宦官は、権力を貪り、社会の害悪となる者が少なくなくなかったなどの批判があります。
中央集権制は、統一新羅時代に強化され、光宗も王権の安定と中央集権制を固めるための政策を行った。しかし、朝鮮王朝時代には、広大な中国の制度を狭い朝鮮半島にそっくりそのまま当てはめたため、硬直した社会となり、近代化を阻害した、中央から派遣された地方官の中には、地方を収奪の対象としか見ない者も少なくなく、産業の育成や富の蓄積が行われ無かったなどの批判があります。
科挙は、新羅時代からあったが、本格施行は、光宗9年(958)に中国から帰化した中国後周(注3)出身の双翼(サンギ)の建議を取り入れ、実施された。(参考文献1・6・7他)
特定の家門に偏らず、広く優秀な人材に官吏登用の道を開くという科挙の理想は立派でが、実際にはなかなか理想通りには行かない場合が多かったようです。現実的に科挙を受験できたのは、経済的に余裕のある一部の特権階級の人だけであり、不正や買官などにより官職に就く人も少なくなかった。
また、子供の頃から実用的でない儒教の経典や中国の古典の丸暗記に没頭し、実学を軽視し、儒教以外の学問を邪学として排斥したため、近代化を阻害したという批判があります。しかし、どの制度・文化が良い、悪いなどというのは、外の人、後の人にしか分からない場合もあり、また良くないと分かっていてもどうにもならないこともあります。
世の中には、オリジナルのものを多く生み出す民族は優秀で、他の民族のものを真似する民族はそうでないなどと言う人もいますが、私にはナンセンスだと思われます。我々が文明的・文化的だと思うものの中には、人間が生きて行く上で必要欠くべからざるものではないものも多くあり、必要でないものは生み出されなかったり、他の地域から伝わっても定着しなかったりします。また、ある民族のオリジナルの制度や文化だと思われるものでも、遡ると他の地域の影響を受けているような場合も少なからずあります。
コリア民族の人達がものごとのルーツにこだわるのは、儒教の影響だと言われていますが、オリジナルか模倣かといった問題に固執するのもあまり意味があるようには思えません。
オリジナルであろうと模倣であろうと、自分達が必要とするもの、自分達に合ったものを守り、必要に応じて改良して行けば良いのだと思います。
注1 826~898年 統一新羅末期の僧、風水師。(参考文献3)
注2 7世紀末から10世紀前半まで朝鮮半島北部から中国東北部、ロシア沿海州にかけての地域に存在した国家。統一新羅とともに南北国時代を形成した。高句麗滅亡後、
高句麗に従属していた靺鞨(まっかつ)族の末裔と見られる大祚栄(テジョヨン)によって、698年に建国された。当初は震国(しんこく)としていたが、713年に大祚栄が唐から渤海郡王に封じられたのを契機に国号を渤海と改めた。926年に契丹に滅ぼされたが、滅亡の前後に多くの渤海王族や遺民が高麗に亡命した。(参考文献4)
注3 五代十国時代の五代のうち、5番目に当たる王朝。951年に後漢(こうかん)を滅ぼして建国、960年に宋に禅譲して滅亡した。
参考文献1 韓永愚 2003 『韓国社会の歴史』明石書店
参考文献2 金両基 1993『読んで旅する世界の歴史と文化 韓国』新潮社
参考文献3 Books Esoterica 23 『風水の本』 2002 学研
参考文献4 金井孝利 2013 『韓国時代劇・歴史用語事典』 学研パブリッシング
参考文献5 韓永愚 2003 『韓国社会の歴史』明石書店
参考文献6 『韓国ドラマで学ぶ三国・高麗の歴史』 2010 キネマ旬報社
参考文献7 Gakken Mook 『韓国時代劇・歴史大事典 最新版』 2014 学研パブリッシング
参考文献8 2015『韓流時代劇が10倍楽しくなる! 高麗王朝の歴史がみるみるわかる本』株式会社 三才ブックス
参考文献9 崔基鎬 2006 祥伝社黄金文庫『韓国堕落の2000年史 日本に大差をつけられた理由』
参考文献10 金文学・金明学 2002 『韓国民に告ぐ! 日本在住の韓国系中国人が痛哭の祖国批判』