***前回の記事、その11より続きです***
東海道は富田の町に入ります。
一里塚橋という小さな橋があると思ったら左側にすぐに一里塚址の石碑が建ってます。
まじまじと見て気になったのは・・・「富」田か「冨」田かどっちなんだ?という事でした笑。
富田は栄えた町のようで街道沿いにもいろいろ出てきます。
八幡神社にまたも力石。
約100キロ、江戸の人どんだけ力比べが好きだったのか?
力自慢の旅人は力石があるたびに絶対毎回挑戦するよねぇ。
この石碑は「行幸記念道路」というもの。
明治43年、大正天皇が皇太子の頃に当地を訪れた事を記念したものだそうですがなんで昭和2年に記念碑を再建しなければならなかったのかが気になります。
お祭りのポスター3連、四日市民はお祭りがお好き?
ありがとう!
暑さはつらいけど楽しいです。
富田の中心的なエリアに入ってきて、ここに道標があります。
左 大矢知中学校
学校の道標って珍しいな。
そして三重県名物里程標。
四日市市大字四日市へ壹里八町
津市元標へ拾里 三重郡富田町
里程標はいつ見ても堂々として良いね。
桒名郡桒名町大字桒名へ貳里貳拾町
員辯郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町貳拾四間
大正三年のものです。
鳥居があるので神社、いや「南町集会所」との銘板がかかっている、神社で地域の集会やるんか~。
富田の焼蛤解説板なんかを読みつついろいろ眺めたり写したりしていて・・・。
そして道標があるのですがこの道標の観察は後回しにしていました。
そしたらいつの間にやらもう写したと思い込んでて・・・シマッタ!!
なぜだかいちばん大事な道標の写真を写し忘れていました、これは痛恨の一撃!
東洋紡績なんて会社名の珍しい行き先の書かれている道標だったのですが・・・。
他にもこのマップとか。
明治天皇がここで何度も休んだことの石碑とかいろいろあったのですよ。
この時は失敗を知らずに先に進みます、街道脇の、町の入り口的な場所にある常夜燈。
薬師寺、滝川一益の兵火に掛かって焼失、ごめんなさい。
観音さんとは?
あ、そうか18日は観音さまの縁日です。
野菜売ってますほぼオール50円。
「観音さん」の常照寺、OTERA YOGA
これも枡形の一種なのかな?
東海道がクランク状に曲った突き当りに石物群が。
また力石かーい!
しかも子供用まで。
三十二貫、百二十キロを肩まで持ち上げるだと~!
重さが刻んであるのなら今のウエイトリフティングみたいにいろんな重さの石を用意して大会とか開いたりしなかったのかな?
でこちらは新設用水道碑。
明治時代の用水路を作った記念碑。
水源地是ヨリ七町、割と近い。
伊勢湾台風で最後には埋まってしまっているのね?
さてクランクを抜けるとここで小さめの道標があります。
これはいかにも前回の記事で登場した服部泰次郎道標です!
現代では読みにくいけどもこうして墨を入れてもらえるとちゃんと読めますね。
1200基も設置されたはずなのですが東海道上ではここしか知りません。
交通量の多い道なので外されたものも多いのかも。
いかるがは奈良県の斑鳩ではなく鵤という近隣の村を指してます。
北勢名物羽田看板も東海道には残り少ないようでこの一枚しか見ませんでした。
東海道は橋ごとに常夜灯がある感じ?
明治35年のものでおそらく再建だと書かれています。
この時代だとまだまだ江戸時代のように実用品としての常夜灯なのかな?
八幡地蔵堂、「地蔵でありながら頭は螺髪手は来迎印を結ぶ阿弥陀如来の姿で仏像をよく知らない石工が刻んだと言われている」って解説にあるけどちゃんと精巧に彫られていた像だった。
当時の石工が仏像をちゃんと知らないってのはなさそうな気がします。
何らかの願いをたくしてハイブリッド仏像にしたんじゃ?
それとも前衛的もしくは変わり者の石工が狙って作ったんじゃないかな。
あちい~トマトジュースが美味い~。
ねえこれ道標があったのでは?場所といい大きさといい。
鈴鹿山脈は花崗岩の産地なのでそこかしこの仕切とか境界線に贅沢に石を使ってるからわからないけど。
おおっ、遠くに立派な松の木が見えてきてます。
手前に看板の見える陶器屋さん、あれは万古焼の鍋か?
良く残ったものだ、なごりの一本松。
川原津の地名にかけて「かわらづの松」と呼ばれています。
こうしてみると三河国の東海道の松がたくさん残っているのは奇跡的ですね。
街道沿いの家々においてあるこの東海道をもりあげる陶器のもの、コードがつながっているけど光るのか?もしや夜ライトアップするのか?激しく気になります。
さすがの東海道、こんな小さな橋の欄干も凝ったデザイン。
街道に面した鳥居は志氐(しで)神社の鳥居、いかにも一の鳥居という感じです。
この神社は街道からかなり遠いのですが(約350メートルくらいか)寄り道で立ち寄ります。
体力の限界が近いのに終盤の寄り道、暑い~、続きます。