***前回の記事、その5より続きです***
旧立田村役場、現愛西市役所立田庁舎です、無事トイレをお借りしました、ありがとう。
伊勢湾台風の想定水位、直接知らない世代には想像を絶しますね。
敷地内には旧立田村役場の立派な石製の門柱が残っています。
この近辺は明治の地図と照らし合わすと旧街道沿いにはこの神社くらいしか名残がありません。
行ってみました、石神社といいます。
そんな名前の通り、石がたくさん散らばっています。
この神社の森はカラスのねぐらなのでしょう。
やたら頭上からカラスが威嚇?警戒音?の鳴き方をしてきます。
フンが落ちてきそうで怖い怖い。
急ぎ神社を離れると周りには少しずつ立田名物、レンコン畑が広がってきました。
羽田の看板が多いみたいです。
葛木の渡しのあった場所はこのあたりのはずですが・・・堤防上に小屋が見えます。
元葛木渡船の小屋ですが現在は不定期の観光船乗り場になっています。
さあどう上るか?と悩んでいたら地元の人がこの突き当りのあそこに階段あるから登れるよと。
緑一色に見えますがマジか?
教えてもらったからには行かねば。
途中まで登った所ですが初手から草ボーボーで笑。
階段要素がひとつも見えませんが階段は確かにありました。
振り返り、草原やね笑。
渡船の小屋は木曽川観光船の標柱に替わってます。
渡船場は観光船の港のあたりか。
このあたり葛木の渡しの石碑があるはずなのですが見つかりませんでした。
明治に掘削された目の前の大河木曽川、この対岸に見える背割堤までの範囲にかつては葛木の大きな村がかつてあったとは信じられません、明治の技術で消えたのですよ。
延々堤防を歩いて南に向かうつもりでしたが途中で工事中の区間があったのでした・・・。
通れそうなのに歩行者もダメだって・・・またまた草を踏み分けて下の道に戻ります・・・。
工事区間を過ぎたら再び堤防上に。
もう一つの渡し場候補大成渡船の跡の石碑がありました。
解説に書かれている内容はどうやら近年のことのようです。
木曽三川御囲堤砂利採取事業協同組合?
名前長いな笑。
本来このあたりの堤防は明治にできたもので、いわゆるおかこい堤ではないはずですが・・・細かいことはいいか。
車も通らない気持ちいい道は爽快ですが流石に飽きてきました。
こういう堤防を歩くと金八先生のオープニングを思い出さずにはいられません。
またまた現れた渡船石碑。
これは小家渡船の跡の石碑というもの。
橋がここまでひとつも現れないのに渡船場がもう三つも出てきました。
現代が車に頼った時代なのがよくわかりますね、歩きや自転車しかなければ断然渡し舟があった方がありがたいですよ。
ここは昭和32年から始まって59年に消えた比較的新顔の渡しの跡、旧立田村は消えた渡船場すべてに記念碑を建てたのかな?
というか、立田大橋ができたのは昭和59年なのか~、思っていたよりも新しい橋でした。
「ケーン」
久しぶりにキジを見ました。
やっと現代の渡し場が見えてきました。
歩き旅をすると感じます、現代の橋と橋の間隔って長すぎですわ~。
まずは木曽川を渡る立田大橋からです。
俺よりもずっと年下だったのかぁ。
ん、なかなか長いな、966メートルの橋です。
立田の渡しを表した飾り欄干。
三連の橋の歩道の端に延々と咲いていた謎の花、こんなニッチな場所でけなげに咲いてるものです。
何という花なのかわかりません。
雨が多かったから今日は水量が多いし濁ってます。
木曽川を渡れば先ほどの小家渡船が結んでいた福原輪中、福原輪中までは愛知県です。
すぐに連続して長良川大橋、471.5メートル。
途中で橋の形が変わりますね。
岐阜県に入ります。
車で渡るだけでは気が付かない橋詰の歩道の地面にあるタイル?のマップ。
愛知岐阜三重の3県県境が集まる場所、それは長良川の底にあるのでそのスペシャルな地点を踏むことはできません、残念。
何かを表している芸術的な長良川大橋の親柱。
上の丸いものは何を表現しているのかな?
長良川大橋で長良川を渡ると岐阜県海津市。
ここ、岐阜県で海に一番近い場所に国営木曽三川公園があります。
遠くからでも目立つ高さ65メートルの展望タワーはどうしてもこの旅では登っておきたかったのです。
下調べでは6月1日からエレベーター工事で冬まで登れなくなると知り、急いで今日の歩きに決めたのでした。
けど、あれ、今もう一度これを書きながらHP調べてみたら工事日程が8月19日~来年春までに変わってる?
どうやら耐震工事が追加されたので日程が変わった模様。
ホントは大人でもちょっと乗ってみたい笑。
おー!
下まで来ると結構高さ感じるね。
エレベーターで一気に展望台へ!
では展望を楽しみましょう、続きます。