All Aboutの記事から「過労による恋力低下を防ぐ方法」をピックアップ。

「仕事におけるある程度の忙しさ、やり甲斐、満足感、センスの吸収はその人の「恋愛力」をアップにつながります。自信に満ちた言動、物腰、表情、そして外見的センスを仕事から吸収し“異性から見た魅力”を磨くことにもつながります。

大学生の時までは地味なオクテキャラだった人が、就職した仕事や職場、取引先の人間関係に磨かれ、どんどん“魅力的”になってゆくケースもあります。“遅咲きデビュー”の男女たちです。とくに高偏差値の大学から優良企業に就職した属性にこのパターンの方々は多いものです。これはまさに仕事に魅力を育てて貰った“良い例”と言えるでしょう。

→http://allabout.co.jp/gm/gc/378656/」


最近読んだ本のなかに、顔の印象は「口元」で決まる、とありました。
唇の形ではなくて、口の端——口角が上がっているか、下がっているかでまったく印象が変わるそう。


口角の下がった顔は怒っている顔、むすっとして、つまらなそうにしている顔。
そんなふうにしていると口角を上げる筋肉はすっかり衰えて、たまに笑っても引き攣った笑顔にしかなりません。


営業マンは朝起きた時、鏡の前で身だしなみと「笑顔」のチェックをすると聞きますよね。


みなさんの口角は上がっていますか?
過労による恋愛力の低下から、口角を守っていきましょうね。
東京メトロのCMに出てる、くしゃくしゃの髪の毛の女の子いるじゃないですか。もうあの子が大好きでしょうがなくて、駅中を歩いていてあの壁紙が目に入ったりすると、それだけで足取りが軽くなるのである。



 で、調べたんだけど、あの子が噂の「宮崎あおい」なんですね。何度も書くようだけど、僕の部屋にはテレビがないもんだから、流行の女優さんだとかテレビドラマとかホント疎いんです。僕にとって彼女は「東京メトロの女の子」でまかり通ってたから、本名が誰であっても構わないんだけど、いざ有名な人なんだと思い知らされると、少しガッカリした気分になる。個人的なアイドルだった子が、実際は大衆のアイドルだったってゆうこのギャップ。メガネで地味な幼馴染が、メガネを外すと急に美人さんになっちゃって、クラスメイトの評判がうなぎ登りでちやほやされて…って時に感じる寂しさみたいな。ちょっと違うか。


とうことで宮崎さんではなく、「メトロガール」で通させてもらいます。メトロガールの何が好きかって、あのくしゃっとした髪の質感がたまらないんです。大学1年生の頃、当時よくつるんでいた男2人と、一人の女の子をとんでもなく気に入ってしまったことがある。3ヶ月くらい、僕ら3人顔を合わせては「Mっていいよな」「Mは最高だよ」「Mのここがどうで、あそこがああで」「文句なし」なんて顔を突き合わせて議論した。議論するだけにとどまらず、3人でよくMを囲んでは写真撮影会をしたり、言葉攻めにしたり、ひたすらに褒めまくったり、観察したり、ところ構わず全力で名前を叫んだりという、同時多発セクハラを延々繰り返していた。


で、その彼女がメトロガールと同じ「くしゃ髪」で、それ以来、くしゃ髪の女の子を見るとそれだけでドキドキするようになってしまった。条件反射というか。刷り込み効果というか。その子が魅力的だったってゆうこともあるんですが、その当時、僕ら3人は暇さえあれば顔を合わせていたし、別にMの話題ばかりじゃなかったけれど、必ずMの話題は出るわけで。そんな毎日を送っていたら、嫌でも好きになっちゃいますよね。あの時の僕たちは、内から見ても外から見ても異常で、猿以外のなにものでもなくて、一方でそいつら二人はいくら何やっても許されてしまう不思議なオーラがあって、僕はいつも頭を悩ませていたんだ。


「東京の 心を乗せて 今日もメトロは走る」


東京メトロのCMは今まで4作出ているけれど、Echika編の47秒目と、新サインの37秒目、さらにネットワーク編では60秒を通して素晴らしくかわいらしい。僕はこのCMがすごく好きだ。それは、ここで語られている風景や人間の営みが、飾ったものでも造り上げたなんでもなく、僕達がいつも通り過ぎる地下鉄の風景だからと思う。それは向の席に座るカップルの姿であったり、案内表示板を指差しながら場所を確認する人であったり、喫茶店で楽しそうに談笑する友達同士だったり、ベビーカートの赤ちゃんに話しかけるお母さんだったり、そのなにげない地下鉄内の一コマを、メトロガールはうきうきしながら軽快に進んでいく。だぼっとした上着を翻し、カラフルなブーツをぺったんぺったんさせて、コミカルに表情を変化させながら。


それは誰でも「メトロガール」になれることを意味している。「何を見て、何を楽しむか」というのは人それぞれ。足早に通り過ぎていく人もいれば、ギャラリーを鑑賞するように広告を眺める人がいたり、メトロガールのようにいちいち面白さを見つけて立ち止まっては「にまー」っと笑う子もいる。地下鉄に限らず街を歩くときは、「感受性を全開にする」ってゆうのは常々僕も気をつけていることだけど、あの子くらい楽しむようになれば文句ないんじゃないかと思う。そうなったらきっと、キリがないんだろうけど。「楽しもうと思えば、楽しめるんだぞ」ってゆう感覚をどこかで持ち続けることは、大切な事なんじゃないかと思うのだ。
結婚を迫る彼女に、彼氏が突きつけた“条件”は「Facebookにページを立ち上げ、100万人がメンバー登録してくれたらOK」。
10年間交際してきた恋人と結婚したい、ただそう願う女性の前に立ちはだかったこの無理難題。
しかし、彼女はこの条件のクリアを目指して早速ページを立ち上げ、現在、メンバーの数を増やす努力を続けている。



この女性は英南部スウィンドンで暮らす32歳のケリー・コックスヘッドさん。15歳から5歳まで4人の子どもを育てる彼女は、
10年間交際を続けている38歳の婚約者ポール・メイプルソープさんとも一緒に暮らし、幸せな日々を過ごしている。
しかし、足りないことが1つだけあった。それは結婚という形態をとっていないこと。お互いが愛し合っているのは分かっている以上、彼女は早く結婚したいと願っていたのだ。
「頑固な彼に付き合っていたら、こんなに時間がかかってしまった」というコックスヘッドさん。さすがにもうこれ以上は待てないと痺れを切らしての行動が、恋人への“逆プロポーズ”だった。



そんな2人だが、実は昨年1度だけ、結婚をするチャンスが巡ってきていた。しかし、このときは「ポールのお父さんが亡くなった」(英地方紙スウィンドン・アドバタイザーより)ためキャンセルする事態に。
それでもようやく目の前まで近づいて来たチャンスを逃すまいと、彼女は再び彼に結婚をするよう猛アタックをした。
すると頑固なメイプルソープさんも2011年中の結婚を受諾。“1”が並ぶ2011年11月11日を予定日とした。これで彼女も一安心……となるはずだったのだが、彼は結婚に際して1つ条件を付けてきたという。



その条件が、Facebookにページを立ち上げて100万人がメンバー登録するというもの。この条件の意図についてメイプルソープさんは「どこからともなく考えが浮かんだ」と、どうやら本当に適当な思い付きだったらしい。
しかも、何事にもチャレンジするのが好きだという彼は「彼女にチャレンジを設定するのも好き」と、試練を与えたこと自体にご満悦の様子。
意味不明な条件を唐突に突きつけられれば、納得がいかないと怒っても良さそうなところだが、健気なコックスヘッドさんは「私は彼の虜なの。結婚したいの」(英放送局BBCより)と、思い付きから生まれた試練に立ち向かうことにしたそうだ。



そして2月10日、Facebook上にページを作ったコックスヘッドさん。開始から6時間あまりで330人がメンバー登録をしたものの、
このペースでは100万のゴールははるか彼方――かと思われたが、メイプルソープさんが安心していられるのも、ひょっとすると今のうちだけかもしれない。




彼女の無謀なチャレンジは、この数日間で徐々にメディアに取り上げられるようになり、それに連れてメンバー数も急増しているようだ。
2月14日までの時点で「1,301人」だったメンバー数は、16日には「2,900人」(英紙メトロより)と倍以上に。そして21日時点でページを確認すると、その数は4万2,000人を超えており、彼女の結婚を後押しするコメントも数多く書き込まれている。
チャレンジ開始時から、11月の結婚に対してなぜか楽観視していたという彼女。「私が100万人集めたら、彼は明らかに皆から冷たい目で見られるから、ちょっと気の毒ね」(英放送局BBCより)と余裕も見せ始めたいま、彼はこの試練の行く末をヒヤヒヤしながら見守ってい

全ての女性は「直子」であり、全ての女性は「緑」である。そして僕達は、「直子」か「緑」を常に選択し続けなければならない。村上春樹が1960年代末を生きる大学生の青春を描いた『ノルウェイの森』の話だ。


直子は、主人公ワタナベがその大学生活をかけて愛しながらも、精神病院での生活を余儀なくされ、ワタナベを残したままひっそりと自殺してしまった女性だ。緑はというと、直子と離れ離れとなっているワタナベの前に彗星の如く現れ、その瑞々しい魅力でいつのまにかワタナベの心を奪っていった女性である。この物語では、ワタナベが常に離れ離れとなった直子のことを想い続けながらも、どうしようもなく緑に惹かれていく心の動きが丁寧に描かれている。


彼女達のイメージについて語ろう。直子はこの物語を通して、「大人」で「落ち着きのある」女性として描かれている。精神病院にて、感情の抑制がつかずに取り乱すことがあっても、どこか「品性」が漂っていた。物腰や言葉遣いの丁寧さ、そしてワタナベ自身が、彼女を「これはなんという完全な肉体なのだろう」と描写しており、ワタナベが抱く女性の理想像はまぎれもなく直子なのだということがわかる。毎週日曜日にデートして、東京の街を散歩したり、お互いの大学生活や恋愛について語り、お互いの誕生日を祝った。


一方で緑は「無邪気」で「破天荒」で、言動に突拍子がないところがあり、それが「瑞々しい」描写で描かれている。感情的で、言いたいことを言い、思うがままに行動する。彼女の言動に何度も唖然とさせられるワタナベの姿が登場するが、いかに彼にとって新鮮で予想がつかず、新しいタイプの女性だったということだろう。図書館に向かうワタナベを捕まえて「そんなところに行くのはやめて、私とご飯食べに行きましょうよ」「もう食べたよ」「もう一度食べなさいよ」と強引に誘っていくシーンが僕はすごく好きで、強引ながらも清清しく、しょうがないなと思わせてしまう。そんな魅力が緑にはあふれている。


「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです」


これはワタナベが、自身の揺れ動く感情を手紙に託した中の一節であるが、彼が抱く彼女達への印象を端的に表現しているだろうと思う。結局ワタナベは、緑を愛していると自覚するものの、その選択に責任を持たないままに、直子は自殺してしまった。


上に書いた彼女達のパーソナリティは、もちろん彼女達の性格を表したものには違いない。しかし、この物語はワタナベの一人称で語られていることから、「彼が、彼女達をどのように感じたのか」というフィルターがかかっていることを忘れてはならない。すなわち、緑は瑞々しい魅力を持っていると描かれているが、それはあくまでも、ワタナベがその時期に、主観的に感じた彼女の印象であって、「絶対的に彼女が瑞々しい魅力を放っている」とは言うことはできないということだ。たしかに文中には、限りなく短いミニスカートから伸びた緑のしなやかな足や、それに釘付けになる周囲の反応、緑の容姿に関する描写を客観的に見ても、彼女が魅力的な女性ということは想像できる。


しかし、緑がワタナベの前に現れたのは、直子と離れ離れとなりルームメイトとも別れ、孤独な日々を送り始めた矢先のことであることや、それ以降の日々、直子に代わって緑とだけ定期的に遊び、語り続けたことなどを考えると、ワタナベの目に実際以上に緑が「瑞々しく」魅力を放って見えたのではないだろうか。実際、直子と語りあった内容や過ごした日常の描写に比べ、緑のそれはより克明に、より多く、より魅力的に描かれている。もし直子と離れ離れにならないうちに緑が現れたら、緑に対してあそこまで暴力的なまでの魅力を感じることはなかったのではないか。


直子の描写は落ち着いている。静かなやさしさと暖かな親しみに包まれている。言い換えればそれは、直子とワタナベとの関係性がすでに「落ち着いた」ものとなっており、お互いの存在をすでに慣れ親しんだものとして捉えているからと僕は思う。直子とワタナベが出合ったのは高校2年生のときであり、もう自殺してしまった親友のキズキを含めた3人で、親密な空間を共に過ごしてきた。当時直子はキズキの恋人だったために、ワタナベは直子を、少し距離を取って眺めていたのは確かだろう。しかしそれでも、直子に出合ったその時や、あるいは大学1年生で再会したその時、不器用ながらにデートを繰り返した期間、果たしてワタナベは直子に対し「瑞々しさ」を感じることはなかっただろうか。いや、感じずにはいられなかったハズだ。新しい出会いにときめくように、直子に対してもまた、緑に感じたような瑞々しい魅力をワタナベは感じ取っていた。デート中ぎこちない会話や、毎週土曜日直子からの電話を待っている時間。直子の歩く後姿を眺めながらの東京散歩――それはワタナベにとっては、緑に感じた魅力と同じくらいに力強いものであったに違いない。


それが描写されていないがために、新しく出合った緑の、印象や会話や過ごした時間がよけいに魅力的思えてしまうのだ。多感な僕達大学生にも経験があるだろう。新しい出会いにときめいたり、その相手との一言二言の言葉のやり取りが妙に印象的であったり…。しかし、その真新しさや新鮮さ、瑞々しさがいつまでも続くわけではないことも、僕達は良く知っている。長い時間を共有するようになれば、いつかはその感覚が「スタンダード」になる。瑞々しく感じられた関係性も落ち着いてくる。お互いに慣れ親しみ、知ることによって、それまでとは違った見方をするようになり、別の印象が芽生え始める。


この物語でワタナベは始終緑の魅力に翻弄されっぱなしであった。そして「僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです」と断定するまでに至った。しかし、緑のその魅力がいつまでも「立って歩き、呼吸し、鼓動している」ままでいるだろうか。物語が終わった後も、彼らの関係性は続いていく。そして寄り多くの時間を、長く共有しあうことによって、いつのまにか緑に対する感情や印象が「静かで、落ち着いたもの」になる時がくるのではないか。いつのまにか緑がワタナベにとっての「スタンダード」となるのではないか。その時、緑は「直子」になるのである。直子にしたような描写でもって、緑を語るようになるのである。そしてワタナベの前に、いつか、緑にはない魅力を携えた、新しい「緑」が現れる。緑を語ったような瑞々しさでもって「緑」を語り始めるときが来るのである。


そしてその時、ワタナベは再び選択を迫られることになるだろう。「直子」か「緑」か。そしてその選択に対して責任を持たなくてはならないのである。ワタナベに限った話ではない。これは僕達に突きつけられた命題なのである。「直子」を取るのか。「緑」を取るのか。その選択をしなければならない局面と、対決しなければならないときが必ず訪れる。


物語では直子が自殺したことによって、ワタナベはこの選択と責任を回避することができた。回避することができてしまったのだ。果たさなくてはならない責任を、最後の最後に投げ出してしまったのだ。だからワタナベは大人になりきることができなかった。あれほど「大人になろう」と決意したのにもかかわらず、最後の最後でその責任を果たさずに終わってしまった。 
 

「僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だった。僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた」



物語の終わりで、ワタナベは自分の場所を見失う。選択をしなかった罰として。責任を回避した弱さによって。自分を自分で支えることもできないまま、緑だけを頼りに呼び続ける姿はまるで子供のようである。この物語は、大人になることへの苦しみや葛藤、闘争という誰でもが潜り抜ける命題に真剣に向き合ったからこそ意味があるのであり、「愛する人を選び取る」という究極の通過儀礼を僕達に提示してくれるからこそ、読まなくてはならないのである。


最後にもう一度書く。全ての女性は「直子」にもなるし「緑」にもなる。女性に限らず男性の場合でもそうだ。そして僕達は、「直子」か「緑」かを選択しなくてはならない場面に直面する。その時、逃げることなく選択することが、自分の選択に責任を持つことが、「大人になる」ということなのだ。これは僕達の問題である。僕達一人ひとりが向き合わねばならない闘争である。


この物語は、大学3年生の10月で終わる。僕はもうワタナベの過ごした季節を越えてしまった。これからの物語は、僕自身が紡いでいかなくてはならないのだ。

「自分の感受性くらい 自分で守れ」


この難しさを痛感する。


これは詩人・茨城のり子さんの言葉である。以前、人に教わった。


その時は、どうにも、感じなかった。感受性くらい、守らずとも、自然と人間に備わってるものと思ってた。しかし現実の自分は、気を抜くと、無感覚のままぼおっと日常の流れの中で埋没しようとする。その良し悪しを前に、無感覚でも、なんら支障なく生活を送ることができる日常が、目の前には広がっている。そのことに対し、僕は最近、非常な恐怖を感じるのである。


デザイン会社でインターンをやっていた頃。


そこの取締役であるSさんに、晩飯をごちそうになった。とんかつを食いながら、営業マン、特にデザインに関わる人間が、常に持たねばならぬ意識について、教わった。


「常にアンテナを張り巡らさなけりゃならない。でも、3本立ってなくてもいい。1本だけでも、アンテナが立ってればいい。いけないのは、"圏外"になることなんだ。圏外の人間は、周りで何が起こってても、通り過ぎちゃうだろ?」


圏外。


ふとすると、自分が圏外になっている。どれほど新聞が情勢の危機を騒ぎたてようとも、春の光が美しく風景を彩ろうとも、友人達が楽しそうな笑い声を立てているのも、考えねばならぬ課題がいくつかあろうとも、一切は通り過ぎてゆく。自分の身体と精神とが、まるで透明になってしまったかのように、目の前に現れる全てを、すり抜けて行こうとする。どこかで警鐘を鳴らす自分の存在を感じる。


「駄目だ!駄目だ! 飲み込まれようとしている! このままじゃ浮上できなくなる! 一刻も早く! 感覚を回復させなくては!」


力強く鐘を叩き続けている。しかし、うるさく鼓膜を震わせる蝉の声が、ふとした瞬間、ふうっと掻き消されてしまうように、警鐘の音もまた、瞬間的に遠ざかってしまったまま、戻らなくなってしまう。


喜怒哀楽を、全身で感じたい。全身で、表現したい。


常に爆笑していたい。常に激怒していたい。常に号泣していたい。常に歓喜に胸を震わせていたい。常に感動していたい。常に脂汗を流していたい。常に痛みを感じていたい。常に舌鼓を打っていたい。常にときめいていたい。常に恋をしていたい。常に追い詰められていたい。常に、常に、常に…。


感受性は、死なせない。