なんとかなる | 日々の感心

日々の感心

日々の感心事を
感じたままに。

「 ほら、あれ、んーとー 」

 

思い出せずにいる頭の中のアレを

なおさら分かるはずのない妻に

問いかけてみる

 

「 あれだよ、あれ、たしか、

  笊(ざる)かなんかで水を汲む話 」

 

「 全然知らない。聞ーぃたこともない 」

 

( そりゃそうだ )

 

そう思いつつも

縋(すが)る思いで尋ねているうちにでも

何かヒントを得て自分で思い出すかもしれない

と期待したが

やはり無理である

 

ネットで検索するにしても

『 ほら、あれ、たしか 』

のキーワードではヒットするはずがないので

『 笊で水を汲む 』

と素直に文字を入力して検索をし始め

ようやく 「これだ!」 と見つけ出す

 

 

逸外 老師随聞記

『 底なし釣瓶(つるべ)で水を汲む 』 (柏樹社)

谷耕月 編

 

 

(これだ、これだ、これだろう)

 

曖昧な記憶と符合させてゆく

 

(そうか、本があるのか……)

 

私は、つべこべ言わずに

そのままさっさと

ネットを介して購入を進める……

 

 

後日......

 

 

その本が
いよいよ

手元にやって来た

 

 

 

 

私の記憶の中では

 

『 底が笊(ザル)になっている桶(おけ)ででも

  水を汲み続ければ手元のバケツに水を溜めることができるもんだ 』

 

だから、あきらめるな、絶望するな

 

と、自分を励ます名言として

時々そのようなことを思い出していて

その諸元が曖昧になっていたのだが
とうとう

これでスッキリできたのである

 

 

 

 

----------------------------------
(略)

それは井戸端へ連れていって、

二つながら底のない釣瓶(つるべ)をもって、
夕暮れから翌朝の一番鶏の鳴くまで
四斗樽に水を一杯汲むという難題であった。
以前に来た者は皆
「そんな馬鹿なことが」できるものか」
といって、やってみようともしなかったが、
このたびの・・・・・・
(中略)
一番中わき目もふらず、一休みもせず、
四斗樽に水が溜まったか溜まらないか
ということも念頭になく、黙々として
長者の親のいうように、
汲んで汲んで汲み抜いて、
一番鶏の鳴いたことも、夜が明けたことも知らず、
一心不乱に汲み抜いた。
 
一番鶏のが鳴くのを待ちきれずに
長者が見に来てみると、
まだ汲み続けていた。
「オイオイ」と長者から声をかけられたが、
禅宗でいう三昧(ざんまい)になってやっているので、
一向に気が付かない。背中を叩かれて初めて
水を汲んでいることに気が付き、四斗樽を見ると
満水して余り水が地一面に流れている。・・・・・・
(略)
----------------------------------
 
私の記憶は甘かった
 
格子のあるザル......
それどころか
底が無いツルベ
だったのだなぁ
 
と感無量 笑
 

 

最初からダメだ

 

と決めつけて思い込まない
 
失敗しても良いから
やってみて
悔やむのではなく
学べたのだと喜び
またやってみる
 
 
『 籠(かご)で水を汲む 』
 
 籠で水を汲んでも少しも溜(た)まらないことから
 骨を折って苦労しても全く効果がないことを表現するたとえ。
 
『 笊(ざる)に水 』
『 目籠(めかご)で水を汲む 』
 
ともいう
 
 
“効果がない”
と思い込んでいないか?
“結果が出せない”
と思い込んでいやしないか?
 
笊(ざる)で水を汲んでみると

少しずつではあるが確かに

水はたまるのだ

 

あーだこーだ言わずに

やってみれば良い


効果は他人にではなく
自分で認めればよい

失敗は効果である

失敗は成果である

結果の価値は
一つだけではない
 
 
聴く耳を持ち
人を尊重し
心を豊かにする志を抱き
正しく生きようとして
進む
 
誰にでも
生きる先に
山(壁)が見える
 
高そうだし
険(けわ)しそうだし
危なそうだ
 
だから何もしないのか
 
目立たなくとも
人に気づかれずとも
いいじゃないか
そんなこと
 
人の幸せを心の底から喜べる人になろう
 
自分でも気がつかないうちに
目標とか
やりがいとか
喜びとか
ほら
幸せに
一歩二歩三歩と
必ず近づいている
 
あきらめるな
 
良いように
 
なんとかなる
 

ましてや

自ら命を絶つなんて

自らの愛を捨てるなんて

 

あぁ

もったいない

 

 

 

 

 

今日の感心