故・山田学(やまだ まなぶ)
(平成10年5月没 享年29歳)
▲在りし日の山田学
上:昭和63年5月
下:平成元年1月
▲平成元年1月15日
成人式後、法道院前にて〝学徒の同志〟
左から、私、 宮田氏、 故・山田氏
5)寺院参詣の約束。
私は、足立区へ転居してすぐに十条へ行こうと思っていたのだが、自身の結婚、妻の出産、そして度重なる出張や輸送班任務の忙しさで、結局は山田に会いにいったのはこの年の12月になってしまった。
私は平成9年12月の、ある日曜日(日にちまでは記憶無し)、十条へ行き、山田の家を尋ねた。
早々に山田学本人が恐る恐る出てきた。
すぐに私の事を思い出してくれた。
「あ~...。るふ君だね?元気?」と言ってくれた。
私は本題(学会破折)に入るよりもまずは食事だと思い、十条の飲食店へ誘った。久しぶりだというのに、なぜか山田は辺りを気にしてそわそわしていた。
ここからの会話
・私「どうしたんだい?」
・山田「誰かに見られていないかと・・」
・私「はぁ?悪い事もしていないのに?」
・山田「いや、最近、学会活動してないからさ・・・」
・私「そうなのか?なぜ活動していないんだ?」
・山田「内緒だよ。学会の会合は人の悪口ばかりでつまらないよ」
・私「そうだろ!学会が破門されたのをどう思ってる?」
・山田「僕としては何とも言えない・・。宗門が正しいとも思わないけど、かといって池田先生が正しいとも思わない。」
・私「そうじゃないんだよ!」
こうして私は、学会の誤りを話しながら、自身の学会脱会から法華講員として活動してきた7年間の出来事を話した。
その流れで寺院参詣へ誘ってみた。しかし、どうも山田の様子がおかしい。
・私「どうした?」
・山田「誰かに見られていないかと・・」
・私「またか!」
・山田「そうじゃなくて、今度は法華講が囲んで来ないかと・・」
・私「そんなわけないだろ!俺1人だよ!」
・山田「わかったよ。今度、お寺に行ってこの目で確かめる。でも、絶対に内緒にしてほしい」
・私「もちろんだ!約束する!御本尊様に誓っても嘘はつかない!」
・山田「ありがとう。じゃあ、一週間後にまた会えないだろうか。その時お寺に行ってみるよ。」
・私
「了解!でも、山田も約束してほしい。一緒にお寺に行く事は、学会幹部には絶対に言ってはダメだぞ!言ったら万事休すだ!全てがおシャカになる!それと、約束を破ったら、君に現証が出て、必ず病院送りになるからね!これは脅しではない!今迄、俺と現証対決した学会員は全員負けて、病院送りになったんだよ。事故や病気でね。証拠もあるぞ。江東区の教宣部の○○は、俺の目の前で正面衝突事故、足立区の教宣部の○○は重病で今でも入院してるぞ!それと学会じゃないが顕正会の○○も、一度お寺に来て一週間後の勧誡を約束したが、見事に約束破り寝返たんだよ。その1ヶ月後、28才の若さで、ついこの間亡くなった。いいか?現証はハッキリしてるんだぞ!」
・山田「わかった!わかった!約束する!」
私「じゃぁ、一週間後、またこの時間に迎えに来るよ!いいね!」
こうして、私と山田は笑顔で一週間後の再開を約束して別れたのである。
6)山田、約束を反古にし、教宣部へ連絡。
この3日後、教宣部U氏から電話があった。以下、やりとり。
・U氏「るふさん、いつもやってくれますねぇ。全部聞きましたよ、十条の山田学君から。もう二度と山田君の所へは行かないで下さい。本人がそう言っています。」
・私「納得できません!私と山田はかつてからの親友です。」
・U氏「山田君をお寺に誘ったんですって?そして『約束破ったら病院送りになる』と脅したんですって?ひどいですねぇ。もう二度と十条には来ないで下さいね。」
・私「納得できません。山田も寺院参詣を望んだんだはずだ。」
・U氏「ではなぜ、山田君から私の所に連絡がきたのですか?」
・私「不安になって、魔に負けて、約束を破ったのでしょう。」
・U氏「まさか、『現証出る』なんて言わないでしょうねぇ(笑)山田君は今、元気にしてますよ。いつ現証が出るのですか?」
・私「それは私が決める事ではありません。因果が裁くのです。さて、Uさん、そろそろ私と現証対決しませんか?」
・U氏「結構です。『経文を先とせり』ですから。ハハハ(笑)」
・私「逃げるのですか?」
・U氏「逃げません!ハハハ(笑)」
(ガチャ)
と、一方的に電話を切っていった。
この翌日、怪文書「フェイク」が届いた。
そこには、
「足立区のるふ氏、北区十条のY君を騙し脅しにかかる。その後、学会に徹底破折され撃沈、敗退。」
と書いてあった。
私は納得がいかず、山田と別れた一週間後の日曜日、つまり一緒に寺院参詣するはずだった約束の日、予定通り、山田に会いにいった。
しかし、山田の家には誰もいない・・・。
数時間、何度も何度も訪問し直したたがずっと留守であった。この日は仕方が無いので引き返した。もう年も暮れようとしていたので、私は年が明けてから再訪問することにした・・・。
7)山田の入院。
年が明けた平成10年1月。
焦る気持ちを抑えながら、お年始代わりに菓子を持って山田の家を尋ねた。
すると、山田の父が出てきた。
私と山田の父の会話は以下の通り。
・私「学君はいますか?」
・山田父「誰だ?」
・私「お久しぶりです。るふです。学君とは、学生部以来の親友です」
・山田父「学会か?」
・私「元学会員です。今は学会ではありません。そういえばお父さんも古い学会員ですよね、座談会でお会いした事があります。」
・山田父「何となく覚えてる。そうかも知らんが、もう学会は嫌いだ。今の学会は冷たい。」
・私「何かあったのですか?」
・山田父「去年の暮れ、学が倒れた。心臓止まって救急車で運ばれた。それなのに学会の奴らは『罰だ罰だ』と、そればっかりいう。息子が倒れた時にそんなことばかり言うのは人としていかがなものか。」
・私「それはひどいですねぇ。私はそんな事は言いません。どこに入院されているんですか?」
・山田父「女子医大だ。学はいつ心臓止まるかわかんねぇんだ!本当に大変なんだ。罰とか言うなよ!」
・私「わかりました。約束します。そんなひどい事は言いません。親友としてお見舞いをさせて下さい。」
・山田父「女子医大の○病等の○階にいる。静かに会ってやってくれ。」
私は一目散に女子医大へ車を飛ばした。
8)お見舞い
たしか、山田が入院していたのは女子医大の西病棟の6階、6人部屋だったと記憶する(定かではない)。
ここで、最初に考えさせられたことがある。
面会者名簿を見たのだが、入院して約1ヶ月も経っているのに、山田学への面会者は、山田の父唯一人だけなのである。果たして山田の父が他者への面会謝絶を訴えているのだろうか・・・。
私はともかく、山田に会いにいった。
山田はいた。6人部屋の左の真ん中。
山田は、私の顔を見るなり、
「来てくれたんだね、ありがとう。嬉しいよ。」
と言ってくれた。思ったより元気そうだった。
以下、やり取り。
・私「大丈夫か??」
・山田「とりあえずね。ありがとう。いつ死ぬかわからないけど。」
・私「そんなこと言うなよ。早く治して大石寺にいこうよ!」
・山田「ありがとう。やっぱり僕が間違っていた。あのとき、るふ君との約束守ってお寺に行ってればこんな事にはならなかったんだね。これは約束を破った罰だよ。るふ君、本当にごめんね。」
・私「ま、今はいいからさ、大石寺を思い浮かべて題目を唱えなさいよ」
・山田「とりあえず、今は何も考えたくないんだ。学会の事も宗門の事も一旦忘れたいんだ」
・私「それより、学会の同志はお見舞いには来たのか?」
・山田「それが…誰も来てくれなかった…。せめて地区や男子部の仲間だけでも来てくれると思ってたのに。誰も来ないんだ。学会は本当に冷たいね。」
・私「そうか。ま、でもその方がいいよ。学会の連中は君や君の家族の悪口言ってるからさ、見舞いに来ても悪口言うだろうよ」
・山田「そうだね。それは言える。座談会でも宗門の悪口と、同志の悪口ばかりだった。」
・私「また来るからさ、早く良くなって、また題目唱えようや」
山田「うん。ありがとう…。ごめん、眠くなってきた。」
・私「OK」
私はこの日はこれでおいとました。
9)2回目のお見舞い
2回目のお見舞いは翌月=2月末頃と記憶する。
この頃、総本山大石寺では客殿新築落慶法要を間近に控えていた。
約1ヶ月ぶりのお見舞いであったが、やはりこの期間の面会者名簿を見ても、山田への面会は、山田の父の名前しか記録が無い。面会謝絶しているわけではないことは、前回のお見舞いで確認済みである。本当に学会は薄情である。
さて、私は足早に山田の部屋に向かった。
そして愕然とした・・・・。
山田の身長は180cmと長身なのだが、すっかり痩せ細ってしまい、言い方は失礼になるがやはり率直に〝骨と皮〟であった。それしか表現のしようが無かった。恐らく体重は40キロ台だろう。そして、体中に管が付けられていた。
以下、やり取り。
・私「山田!大丈夫か??」
しかし応答が無い・・・。
看護師がやってきて、
「山田さ~ん、お友達ですよ~。頑張りましょうね~。」
と言って山田を起こして下さった。
山田はもう起き上がることはできなかったが、なんとか薄目をあけてくれた。
・山田「・・・・・。ありがとう。僕はもうダメだから。」
・私「何言ってる!」
・山田「ごめん・・・・・。」
山田は体を動かす事もできない。
私はこの状態ではもはや話せないと思い、山田の耳元で、ほんの小声で題目を聞かせた。
ところが山田は、
・山田「・・・看護婦さ~ん。助けて~宗教~・・・。」
といって、私を拒否したのである。
もはや、学会とか宗門とかそういったレベルの話ではなく、〝宗教〟そのものを拒否するレベルにまで堕ちていたのである。
私は勿論そこで題目をストップした。
しかし、学生部時代、「辻斬りに行きます!」と言って十条駅周辺の道行く人に折伏を行っていた山田の勇姿はどこへ行ってしまったのであろうか。私はとても悲しくなった。
看護師は私を咎める事も無く、ニッコリと微笑みながら、
「山田さ~ん、頑張りましょうね~、きっと治りますよ~。大丈夫ですからね~。」
と告げていた。
山田はそのままスヤスヤと眠っていった。
10)3回目のお見舞い
総本山大石寺では3月末から4月初旬迄、客殿新築落慶法要を行っていた。
私はこの期間、輸送班として任務し、4月には支部内で役員認証を受け、多忙になっていった。
そういった関係から、3回目のお見舞いは5月になってしまった。
ところが、面会者名簿には4月以降、山田の父が面会した記録が無い。
そして部屋に行ってみると、山田の姿が無い!
山田の名札も別の人になっている!
慌ててナースステーションに尋ねると、
看護師二人がヒソヒソ何かを話している。
「...知らないのかな・・・」と聞こえてきた。
看護師一人が私に向かって、
「山田学さんは4月○日にお亡くなりになりました」
私は「えぇ~っ!」と叫び絶句した。
これはもう、山田の家族を折伏するしかない!
そして家族で追善供養していくしか無いんだ!
そう思って一目散に十条へ向かった。
11)山田家の実態と創価学会の態度
急いで故・山田の家のチャイムを鳴らしたりノックしたのだが、応答がない。留守か?
ところが、なぜかドアが少し開いていた。ゆっくり開いて「ごめん下さ~い」と叫ぶがやはり応答しない。
私はこっそり中を覗いてみた。驚いたのは、家の中が雑然とし、埃まみれで生活感が無かった事だ。
「この短い間に山田家で〝何があったのか?〟夜逃げでもしたのか・・・?」
様々な憶測が頭の中を飛び交う。
そして、ふと玄関の床を見ると、「友人葬」のチラシが散乱していた。
「・・・?・・・なんだこれは?学会が尋ねてきたのか?」
そして、郵便ポストを見ると、こんな感じの、
やはり「友人葬」のチラシがギッシリ詰まっていた。
「おや?ここに誰も住んでいないのか?山田の葬式はやったのか?何でこんなにたくさん、友人葬のチラシを入れる必要があるのか?」と、
非常に不可解に思った。
全く状況がわからないので、隣の家の人に尋ねてみた。
・私「つかぬ事をお尋ねしますが、お隣の山田さんはここに暮らしていますか?」
・隣人「山田さん家は、短い間にみ~んな、亡くなりましたよ。」
・私「えっ??学君が亡くなったのはさっき、知りました。お父さんやお母さんはついこの間まで、生きてましたよね?それにお兄さん(山田明)も亡くなったのですか?」
・隣人
「お母様は今年の3月頃に病気でお亡くなりになって、そして、すぐ4月に息子さん(山田学)も病院で亡くなって、お父様はついこの間、ここで亡くなられたようです。原因は詳しくは知りませんが・・・。お兄さんはずっと前から行方不明で、お葬式らしいことははしていないようですよ。いつだったか、警察が来ていたのを見かけましたが。それ以上は知りません・・・。」
・私「お宅は学会員ですか?」
・隣人「いいえ、違います。よく勧誘されましたが、学会には入ってません。でも付き合いが長かったですよ。本当にご愁傷様です。」
私は絶句した。と同時に、涙が出てきた。
つまり、この短い間に、〝一家破滅〟したのである。
いかに創価学会の謗法が恐ろしいか。
いかにニセ本尊の害毒が恐ろしいか。
日蓮正宗との約束を破る事がいかに恐ろしいか。
しかも、創価学会は、山田のお見舞いも一度もせず、私への悪口雑言のために山田を利用しまくったのである。
そして、「友人葬の案内」のチラシだけを、金目的に山田宅に投函しまくっていたのである。
これが人間の集まりか?友人でも何でもないではないか?
私は創価学会へ極度の憤りを感じた。私は直ぐさま、山田を利用した教宣部に文句を言いに行った。
・私「学会の馬鹿野郎!大作の馬鹿野郎!お前ら鬼畜だ!山田を殺したのはお前ら学会だ!山田一家の死を何とも思わないのか!!」
・教宣部「誰でも死にます。死ぬのはその人の勝手です。山田一家も自ら死んだのです。」
・私「俺と一緒にお寺に行く約束を反古にして、教宣部に寝返った罰なんだよ!」
・教宣部「それは違います。私は教宣部なのに、こんなに元気じゃありませんか。」
・私「じゃぁ、そろそろ現証で勝負しませんか?」
・教宣部「結構です。『経文を先とせり』です。」
・私
「その御書の全文は、(略)(星名五郎太郎殿御返事 御書364)
このように、続く御文では、当時は国中がが念仏の様相であったので、それを破折しているのは明白です。」
・教宣部「我々は大聖人直結です。御書の解釈は我々に権利があります」
・私「直結の文証はありませんね?それと、『当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して』」
・教宣部「それは御書ではありません」
・私「『時の貫首為りと雖も』」はどうなりますか?
・教宣部「うるさい!仏敵め!」
平行線で長くなるのでここでは詳細は述べないが、教宣部は絶対に現証の勝負を受けません。
12)山田への供養
人生の中で、一度の恋愛経験もできず(本人証言)、若干29才の若さで亡くなった山田学。
そして、数ヶ月のうちに家族もろとも崩壊した山田一家の無念さは、当人しかわからないであろう。
故・山田学の追善供養、塔婆供養をするとともに、
「山田学(やまだまなぶ)」
という実名と、実際の写真を使って、邪宗:創価学会を破折し、ニセ本尊の恐ろしさ、鬼畜:池田大作のペテンを後世に伝える事が、亡くなった山田への最高の供養になるであろう。