【137】親友(学会員)の死---その1 | [rufu's room]るふの広がる蘭室/

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★★★「心・健康・経済」の三つの財(たから)をテーマに、歴史・
宗教・哲学・スポーツ・読書等を題材にした備忘録です。
日蓮正宗・法華講員の「個人的なブログ」ですので、
「言葉足らず・正確性を欠く比喩」があります。
あくまで「御参考」としてご活用ください。

故・山田学(やまだ まなぶ)
(平成10年5月没 享年29歳)



 昭和から平成初期にかけての、私の大親友である。

 今回のブログで、山田(あえて、当時のままに、呼び捨てにする)との【出会いと別れ】を、ありのままに話す事によって、それが、苦海にさまよう彼への回向となるであろうし、塔婆供養に加えた〝追善の声
として彼に届くものと信ずる。


1)山田との初めての出会い。

 昭和63年、当時
私は19才であり某美術学校へ通う学生であった。
 山田は創価大学の通信教育生であった。

 
昭和63月、東京都北区十条のA宅にて、創価学会学生部北区第3部・Tグループ座談会が行われていた。私は十条へ越してきたばかりだったのでこれが初めてのTグループ座談会への参加だった。当時の創価学会学生部は非情に真面目・真剣に大聖人の仏法を学んでいた。
 心の底から日蓮正宗、大石寺、大聖人様を崇めていた。

 勿論、同時に池田への崇拝も「人間革命学習会」にて同時進行していたわけだが、少なくとも「御本仏は日蓮大聖人、広宣流布は日蓮正宗の御本尊」というスタンスは絶対であった。
 その証拠に、唱題会はお寺、座談会は信徒宅、会合は会館というスタイルで活発に活動しており、寺院(当時・法道院)への御供養も、学生部員ながら欠かさなかった。

 さて、このA宅でのグループ座談会で主たるは、御書の勉強会と近況報告であった。
 ここで見上げるほどの長身・山田学が、私の隣で背中を丸めながら、ボソボソと小さな声で御書を読んでいた。私はまだ入信して1年足らずだったので、御書の読み方も知らず、山田が横で小声で読み方を教えてくれた。これが、彼と私との初めての出会いであった。


 それから定期的にグループ座談会、折伏と、寝る間も惜しんで毎日が活動であった。
当時の学生部は本当に真剣に広宣流布を思い、青春のエネルギーを全てここにつぎ込んでおり、本当に楽しかったものである。


▲グループ座談会:昭和63年5月頃
  左:山田学   右:宮田兄弟 
  (テーブルの上に、創価新報と人間革命が見える)

 山田の性格は、「絵に描いたようなクソ真面目」であった。
 表現は悪いが、「果たして山田にも性欲はあるのか?」と周囲が心配するほどであり、彼は週刊誌のアイドルの水着姿の写真を見せただけで直視できず赤面して逃げるという光景を、他の学生部員も楽しみながら、彼をからかうのが恒例であった。

 そんな楽しい学生部時代を過ごし、時は昭和64年へ突入した。
 【昭和64年
ときいてピンとくる人はいるだろうか・・。
 そう、昭和天皇が危篤状態になり、国中が自粛モードで、成人式すら中止になった年だ。
そして昭和64年はわずか7日で終わる事になった。そう、昭和天皇崩御により激動の昭和が終わったのだ。

 地域にも差があったであろうが、我々の住む東京都北区では成人式は行われなかった。
しかし、日蓮正宗・法道院では御慈悲により、観妙院様の御導師の元、成人式を執り行って頂いたのである。

▲成人式:平成元年1月15日 於・法道院客殿
  中央:観妙院日慈上人  右端:我々
 (クリックで拡大


▲成人式 同写真 部分拡大
  
左から、宮田氏、 私、 故・山田氏


成人式後、法道院前にて〝学徒の同志 
 左から、私、 
宮田氏、 故・山田氏

 この帰り道、いつも活動を共にしていた、学徒の同志3人は観妙院様の御法話を振り返り、その御徳を話しながら、将来の広宣流布とロマンを語りながら埼京線で、地元・十条へ帰ったのである。


2)就職による町田への転居。

 さて、私は平成元年3月に専門学校を卒業、就職のために東京都町田市へ移住した。
ここでの就職先の上司が法華講員であったことが私にとって「学会との決別」になるべく縁であった。(ここでの生活を書くと話が膨大かつ横にズレるので割愛する。)

 町田へ移住してからも、山田との交流は続いた。私が社会人になった年、彼は当時創価大学3年生であり、学会組織内では学生部グループ長になっていた。
 私は時々、十条へ行っては、学会員の経営するお好み焼き店「火の鳥」で、思い出話をしたものである。
 山田は20歳を過ぎても相変わらず生真面目で、全く女っ気のない青年のままであった。

・私)「山田、彼女ほしくないのか?」

山田)「いや、汗)僕はそんなこと考えてはいけない人間なので・」

私)「何言ってんだバカ!だからダメなんだ!もっとハジケろ!」

 さて、そうこうしている間に、何だか学会の雲行きが怪しくなった。

 平成元年後半になると、池田名誉会長同時放送の内容が段々とおかしくなってゆくのが、当時まだ〝池田崇拝〟であった私にもよくわかった。
 池田の言葉の端々に、御僧侶を軽蔑する発言が目立つようになり、幹部もこれに同調してゆく気配を感じ、「おや?」と思ったものである。
 こういった「おや?」という心を、当時は誰かに相談しようものなら吊るし上げになることはわかりきっていた。
 しかし、唯一、山田にだけは話せたのである。

・私)「学会とお寺って同じ日蓮正宗ではないのか?最近はお寺にいく学会が減っている。」

・山田)「そう!僕も思っていた。最近の学会は情けない。池田先生はどう思ってるのだろう。」

・私)「そこなんだよ!同時放送で、先生は最近、お寺をバカにしていないか?」

・山田)「そうだ。それは言える。でも、池田先生も凡夫だから。100%正しいとは限らない。」

・私)「なんか、面倒くさいな。御授戒はお寺だろ?なんで活動は会館なんだよ。あと、選挙活動必要か?」

・山田)「確かに。でも、池田先生のお陰で今の自分があるから、批判はマズイよ。」


 こんなやり取りをよくしていたものだが、特に私の心のターニングポイントになったのが、平成元年11月の聖教新聞主催の青年部写真展。
 私が応募した写真が「奨励賞」を受賞し、暮れも押し迫る頃、信濃町の学会本部の授賞式へ参加したときの事。

 受賞した全国の学生たちが信濃町での授賞式に招待され、私は勿論「センセーに会えるかもしれない」と胸を躍らせながら参加した。

ここでプロのカメラマンによる全作品の批評の後、ある幹部(おそらく副会長クラス)から別室に招かれた時のこと。

その幹部から「今日は池田センセーはご都合により欠席されておりますが、受賞者全員に記念品の贈呈とメッセージがあります。記念品は友誼抄(書籍)です。この本は池田センセー直筆のサインと実印が押されています」と告げられた。

それをもらった学生たちは号泣し、私も感激していました。
その後のことです。その幹部は「それでは池田センセーのメッセージを紹介します。」とその原稿を読み始めた。

「青年世紀元年のでの受賞おめでとう。皆さんは21世紀の舞台で学会を背負う大人材です。21世紀に向かうとき、私(池田)を求めない人は淘汰されます。私を求めない人間は〝宇宙のベクトル〟が違うからです。どんなに御本尊を拝もうと、幹部であろうと僧侶であろうと、私を求めない人間は〝宇宙のベクトル〟が狂うのです。21世紀に向かう同志たちよ、共に戦おう」(趣旨)
というものだった。

私はその後まっすぐに学生部の拠点に集まり、このことを先輩たちに報告した。
勿論、「輪島!お前はすごいな!」と大拍手。

そこで私は「先輩、〝宇宙のベクトル〟って何ですか?御本尊様を拝んでもセンセーを求めないと功徳はないのですか?」と質問したところ、

先輩は「そりゃそうだ!宇宙は池田センセーを中心に運行しているんだよ。〝宇宙のベクトル、宇宙のリズム〟それが妙法なんだよ。いいか、センセーは〝歯車がかみあわなければ回転させても、力は伝わらない。いくら送信機で信号を送っても、受信機の波長が狂っていれば通じない〟と指導しているぞ。センセーは妙法の送信機、俺たちは受信機なんだ。」
池田本仏論を遠回しに語り出し、挙句の果てに、

「UFOが昔から頻繁に地球に飛来しているのは、宇宙人は皆、池田センセーに会いに来てるんだよ!池田センセーを求めてるんだよ!いいか、池田センセーは地球の広布だけじゃなくて、宇宙広布まで考えているんだ!21世紀になると、俺たちは宇宙人と交信して、宇宙まで旅して仏法対話する時代が来るんだ!その時はいいか、宇宙人と話せるようになれ!輪島!お前は宇宙広布の先頭を歩けるようになれ!」と、延々と語っていった。

しかし、まだ蒼く池田崇拝だった私はこの荒唐無稽な壮大論をすっかり信じ込み、涙を流して感激し、宇宙旅行をしての学会活動を本気で夢見ていた。

3)北海道へUターン。

 私は平成3年3月、札幌市の日正寺の法華講員となった。
私はここで約6年間をすごした。この期間にも色々な事があったが、端折ることにする。


4)転勤により東京・足立区へ転居、山田との再会。

 私は札幌で、某印刷会社の札幌支店へ勤めていたが、平成9年1月に東京本社(台東区)へ転勤、住まいは足立区となった。
 ここで、私は最寄りのお寺、本修寺の預り信徒となったのである。ここで、真っ先に思い浮かんだのが、当然、「十条の山田は元気だろうか」である。


(つづく)