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【〝アメリカ信徒第一号〟の真実】
学会内の定説では、日蓮正宗の海外布教が始まったのは昭和36年からとされる。
当時、創価学会がまだ正しく〝日蓮正宗の信徒団体〟として機能していた昭和36年初頭、前年に第三代会長に就いたばかりの池田が、総本山第六十六世日達上人と共にインド・ブッダガヤを訪れ、『三大秘法禀承事』や、池田の揮毫を彫りつけた石版などを埋めたことが、「仏法西還」のスタート地点とされている。
しかし、この学会内の定説はあくまでも「池田美化」のための脚色である。
1)昭和34年暮れ、インドの高級官僚・T・プラサド氏はすでに日蓮正宗に入信、翌昭和35年初頭には、御下附いただいた御本尊様をしっかりと捧持(ほうじ)し、インドヘと帰っていったのである。かくして、日蓮正宗の御本尊は、池田がインドへ行く前に、しかも池田が第三代会長に就く前に、すでにインドの地 に到達していたのである。しかも、インドの最初の「一粒種」であるT・プラサド氏は、何を隠そう、三宅妙子さん(池田大作を折伏した人)が折伏した人物であった。
三宅妙子さんは、時を経て平成の学会問題で学会を脱会し、妙縁寺支部の法華講員となった。
2)SGIの初代理事長:ジョージ・ウィリアムス氏と聞けば、誰もが【アメリカ人信徒第一号】【アメリカ布教の先駆者】と連想するだろう。そして、ジョージ・ウィリアムス と聞けば、たいていの人はアメリカ人を連想するが、もとは日本人であり、貞永昌靖というのが最初の名前である。彼は、昭和36年に渡米し、後のNSA(日蓮正宗アメリカ)理事長としてアメリカ布教の第一人者となった強信者だ(1971年にアメリカ市民権を獲得し、名前をジョージ・ウィリアムスと改名した)。同氏は平成4年11月、理事長を退任、平成22年に創価学会を脱会した。
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ここから、通称「現証の中野」
故・中野忠次氏
(啓脩院法忠日全居士)Cyuji Nakano
の体験話をはじめる。
多くの人が「アメリカ人信徒第一号」と連想するのはジョージ・ウィリアムス理事長だが、実は、アメリカ人信徒第一号は、ジェリー・ヒックス氏(※)という生粋のアメリカ人である(※現在有名な〝引き寄せの法則〟の著者とは別人)。
ジェリー・ヒックス氏は、昭和33年、中野忠次さんの折伏で入信した。
昭和32年、北海道苫小牧市にあった日本製紙の工場で勤務していた中野氏(当時40歳)の部下として、若きヒックス氏が入社した。まだヒックス氏は日本語ができなかったが、中野さんは身振り手振りで仕事を教えた。
そうこうしているうち、ヒックス氏は中野氏の人柄に惚れ込み、中野氏の自宅で食事をするようになった。そして、中野氏が行う勤行に興味を持ち、一緒に勤行をするようになっっていった。中野氏は英語は出来なかったが、身振り手振りで一生懸命に勤行を教え、折伏をした。
その折伏の様子を、故・中野氏は次のように語っていた。
「俺もね、家内が体を壊してのっぴきならなくてね、パチンコばかりしていたんだよ。どこかに正しい宗教は無いかと放浪して歩いてたどり着いたのがね、学会(当時・日蓮正宗)の座談会場だったんだよ。日蓮正宗は凄い!と思って入信してすぐに俺の病気が治ってね。この体験をヒックス君にね、身振り手振りで話したんだよ。〝入信前はこんなに苦しかったんだ〟という苦しい顔をして見せて、〝題目したらこんなに顔が和やかになって桜色になったんだ〟という顔をして見せてね、全部ゼスチュアで折伏したんだ!」
昭和33年秋、ヒックス氏は素直に中野氏と共に室蘭へ行き、建立されたばかりの深妙寺で御授戒を受けたのである。
その後、ヒックス氏はアメリカへ戻り、アメリカの【一粒種】としてアメリカ布教の先駆者となったのである。ウィリアムス理事長よりも先に、【アメリカ布教の先駆者】として、大々的に眷属を増やし、アメリカ広布の土壌を作ったパイオニアこそ、ジェリー・ヒックス氏なのである。このヒックス氏の入信体験は、後の聖教新聞にしっかりと載っているのである。
「 仏 法 西 漸 」
日蓮大聖人「諫暁八幡抄」に曰く
「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり」
日蓮大聖人「顕仏未来記」に曰く
「月は西より出でて東を照らし、日は東より出でて西を照らす。仏法も又以て是くの如し。正像には西より東に向かひ末法には東より西に往く。」