【9】「九識」-その1 「よっこいしょ!」の語源(リアル掲載日:2009-06-24) | [rufu's room]るふの広がる蘭室/

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★★★「心・健康・経済」の三つの財(たから)をテーマに、歴史・
宗教・哲学・スポーツ・読書等を題材にした備忘録です。
日蓮正宗・法華講員の「個人的なブログ」ですので、
「言葉足らず・正確性を欠く比喩」があります。
あくまで「御参考」としてご活用ください。

2009-06-24
「rufu's room 」るふの広がる部屋


人間の体のうち、普段の生活の中では外界の出来事をキャッチして認識する感覚器官は5カ所=「眼(げん)」「耳(に)」「鼻(び)」「舌(ぜつ)」「身(しん)」です。この5つの感覚器官(五感)によって外界を認識しています。その奥の部分には「心」の感覚器官(意識)がありますが、目から数えて六番目にあたる認識ということで「第六識(第六感)」といいます。これが仏教の認識論の初歩入門となります。「第六感が働く」、きいいたことありますね?

私たちの日常の生活では、主にこの五つの感覚器官(五感)とそれに基づいて認識していく意識「第六識(第六感)」によって暮らしています。


では、この 六識を、ごく簡単に述べて見ます。


【六感】 →  【六境(対象物)】    → 【六識】(認識能力)


○「眼」 → 色境(見えるもの全て)  → 「眼識(げんしき)」(視覚的認識)


○「耳」 → 声境(音・声・音楽など) → 「耳識(にしき)」(聴覚的認識)


○「鼻」 → 香境(匂い・香りのある)→ 「鼻識(びしき)」(臭覚的認識)


○「舌」 → 味境(食べ物・飲み物など)→ 「舌識(ぜっしき)」(味覚的認識)


○「身体」→ 触境(触れられるもの全て)→ 「身識(しんしき)」(触角的認識)


◇「心」 → 法境(感覚されるもの)  → 「意識(いしき)」(知覚的認識)


 


(この、六感を、仏教では「六根」と表現することが多いので、以下、六根と表現します)


 ☆では、この六根を潤すために、とりあえず生活の中で五感を「良いもの」で満たすとしましょう。


例)


・「眼」に対して→周囲全てを美しい風景で彩ったり、美しい異性にそばにいてもらう。目の保養。


・「耳」に対して→美しい音楽や音色(好きなアーチスト等)を流し続ける。ライブなど。


・「鼻」に対して→芳しい香りのものを置く。アロマテラピーなど。


・「舌」に対して→最高の食材を使った高級調理を味わう。グルメなど。


・「体」に対して→そよ風、マイナスイオン、マッサージ、温泉、異性との絡み、スポーツ等々



旅行や趣味、スポーツ等を満喫して、とりあえず、五感を自分の大好きなもので埋め尽くしたとして得られる「意根」(六識)は、一時的にはは不快からは逃れ、六根は快感な意識になるのではないかと思われます。こうした環境を整えることはさほど難しいことでは有りません。とりあえず経済豊かにして全てを満たすことは物理的には可能です。


さて、六根をキレイにすることを「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」といいます。実は「よっこいしょ!」の語源がこれなんです。


こ うした、「大好きなもので全てを満たす」生活を日常おくれば「六根清浄」が果たせるのではないかと考えがちです。しかし、このような生活を送っていても、 煩悩(無明)は生命の内面から泉のごとく湧き出てきます。例えば、いくら経済的に恵まれて何不自由ない暮らしをしていても、煩悩・欲・悩み等が消えること は、「人間である以上」ありえません。欲は満たしても次から次へと別なものを望むものです。これでは六根清浄にはなりません。
しかし、仏教では「煩悩」や「欲」を消すべきではないことが説かれています。清浄=消すではない、とはっきり説かれています。清浄とはなにか、それはまた次回以降のブログにのせてゆきます。
 
もし「悩みのない」人がいたとしたら、その人はむしろ、自己満足に閉じこもって、外の世界、一瞬一瞬に変化して居る全ての世界の「無常」を認識できない「小さな器」の人、現在の安穏をむさぼろうとする人といえましょう。


どんなに形だけの六根清浄の暮らしをしていても、人間は生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦八苦の苦悩から逃れることは出来ないのです。必ずこれらに相対する宿命を持っています。


次回か、次々回あたりで述べますが、見惑・思惑・塵沙惑・無明惑の煩悩は、莫大な財産・資産を手に入れ、世界一の大富豪になったとしても、生活環境を最高のものに整えたとしても、それだけでは断ずる(解決する)ことは残念ながらできないのです。


よ く、「今が幸せならそれが幸せ」という言葉をききます。全くもって不幸な言葉だと感じます。本当に幸せな人がそんな低次元な言葉を言うでしょうか。つま り、「今のうち満たしておこう」「あとで不幸になった時のために、今のうち思い切り良い思いをしておこう」と言っているようなものです。「いいことばかり はありゃしない」という気持ちはよくわかりますが、結局、そういった心根というものは、動物的本能的レベルに近いもので、そういった欲の世界というもの が、「欲を満たすための」犯罪や事件を起こし得る心根の原点になっていることを次回は勉強していきたいと思います。


ま た、「空が落ちてくることを恐怖に感じているのは馬鹿げている」「一度きりの人生なんだから思い切りやろう」という言葉も耳にします。しかし、よく考えて みてください。「空が落ちて」苦しんでいる人々は、実際に存在するのです。空から落ちる「爆弾」「雷」「台風」「火山」、そして流行病も空気を介すること もあります。こういった人たちを救っていきたいとは思いませんか?
 災害、事故にあう、事件にあう、こういった人は、「自分にはそんなことはおきないから、人生をエンジョイしちゃえ!」と思っている人に、実に多いものです。きちんと「実証・証拠」というものが存在します。


以前のブログ=

 【2】財(たから)その2  を御参照ください。


本当の幸せとは、「絶対的幸福」、絶対=どんな場所でどんな境遇に逢おうとも微動だにしない、微動だにしないどころか、全ての不幸の根源を幸せの基に変えられる、「宿命転換」のできる自由自在な生命のことです。


(つづく) 


※一般者対象のため、仏教用語を噛み砕いており、説明不足・表現が適切でない箇所がありますことはご了承ください。