【2】財(たから)その2 (リアル掲載日:2009-06-15) | [rufu's room]るふの広がる蘭室/

[rufu's room]るふの広がる蘭室/

★★★「心・健康・経済」の三つの財(たから)をテーマに、歴史・
宗教・哲学・スポーツ・読書等を題材にした備忘録です。
日蓮正宗・法華講員の「個人的なブログ」ですので、
「言葉足らず・正確性を欠く比喩」があります。
あくまで「御参考」としてご活用ください。

財(たから)その2

「rufu's room 」るふの広がる部屋

4月20日、タレントの
清水 由貴子さんがお亡くなりになりました。
欽ちゃん番組によく出演されており、
とても心優しいお姉さんのイメージで大好きだっただけにとても残念です。

しかも、愛するお母様への「介護うつ」が原因だったとお聞きし、心が痛みました・・・・・。

遅ればせながら、清水さんのご冥福を心よりお祈り致します。





表現は適切ではありませんが、今の思いをブログを書きます。


●自殺者の自殺理由の傾向(表現はご了承ください)


http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/link/keisatsutyo.html

http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki81/210514_H20jisatsunogaiyou.pdf

http://www.npa.go.jp/toukei/chiiki10/h19_zisatsu.pdf#search=




毎年、
1位…健康問題:40% 2位…経済問題:31% 3位…家庭問題:10%
となっていることがわかります。
 
 この件について、昨年、 興味深い内容がある番組(ケーブルテレビ)で放映されていました。 それは、2位の経済問題についてはそのまま、自殺者の多くは無職だったり、事業失敗で
多重債務に追い込まれたり、保証人や詐欺にあったり、それが引き金となって追い詰められている)。
つまり、お金の悩みで命を絶ってしまう=これはストレートにうなずける。

 ところが、毎年1位になっている健康問題と、3位になっている家庭問題のことで、
これを理由に自殺してしまう人の中に、非常に「四大卒エリート路線」の割合が多く、
更に「富裕層」「長者」「資産家」の割合も多いということでした。
番組では、国外にも目を向け、世界の中の本当の富豪の割合は5%しかいないというのに、
 その5%の中からも自殺者が多数出てしまうという不思議さを語っていました。
残念ながらこのような人たちは遺書の中に「巨万の富を得て経済的には何不自由なかったが、 どんなにお金をつぎ込んでも解決できない問題にぶつかり、道が無くなった(概ね)」
というようなことを理由にあげたことを明かしています。
 つまり、平たく言って、「大金持ち」が不治の病となったり、人間関係問題ががおきた時に
「まさか自分が」「天(お金)も我を見離した」と錯覚し、鬱・精神分裂になる傾向があるように見受けられました。

このような人たちがもっとお金を正しく認識し、経済力を別な方面に使い、心の方が富める・内面が豊かな人生 を歩めば、病になったことを逆に活かせる賢さがあればこのようなことには...等々というような内容で警視庁の方を招いてでディスカッションがなされていました。
そして、「一流企業や四大卒を狙うことを目標にした人」と対極に「何を学ぶかを目標にした人」の 人生の違い等々を話していたと記憶する。



(個人的所感)
この番組のことを思い出したきっかけは、ある書(ロバート・キヨサキ著)の中の
「頭の中の考えがその人の人生を作る」「お金に関する正しい教育」 という
言葉の奥にある、鋭い概念と、その膨大な経験・知識の数々。
また、アンソニーロビンズの、「成功を阻む潜在的恐れ」「人生を変えるエネルギー」、自身の精神をコントロールするための知識は、素晴らしいと思う。実際、これで人生が変わる人は多いと思う。
また、「引き寄せの法則」も流行っている。



しかし、こういった「成功哲学」の数々は、
「仏教」に比較すれば、枝葉末節、低次元の幼稚な部類に位置する。
大学院の研究と、幼児の絵本の比較ほどの差がある。
否、薬(仏教)と毒(成功哲学)の差といっても過言ではない!

「仏教」は、宇宙・森羅万象の一切をことごとく説き尽くしている。
現代科学等の研究で発表されたことや、ノーベル賞もの、
そういったことすら、仏教では3000年以上も前に、もっと詳しく説いている。


「金持ち父さん」「引き寄せの法則」等々の成功哲学の影響で
自殺してしまった人も実に多いのである。

こんなことを言ったらロバキヨ崇拝者やロビンズ崇拝者から批判されるかも知れないので、与えてフォローします。
仏教では、ゲイツやロバキヨさんのような人が、なぜあのようになるのかも、そのメカニズムがきちんと説かれています。しかし、真の成功者ではないので結果、最終的に救われない事、真の幸せな人ではない事もしっかりと説かれています。
つまり、前世においてこのような、あのような、ことをした人がそうなる、そして、因縁因果の上に、と。前世における下積みのほうが大きいことを明かしています。

「成功哲学」は、人間の深層心理の七識「未那識」の部分をひたすら鍛えようとするだけであり、せいぜい八識「阿頼耶識」に至っては、表面の薄皮をこする程度の論理である。
つまり、人間の幸・不幸を司る部分に関しては、表面の氷山の一角の「学習」の域であり、
人間の内面の奥底の根本解決には至らない。
つまり、「大富豪」「自由」にはなっても、未来永劫、来世に至るまでの人生設計と
幸せは保障されない。莫大な富も、来世には持ってゆけない。
人は皆、「一度きりの人生」と思いこんで、「大きな経済」と「自由」を手に入れて、
それを「幸せ」と勘違いする。これが、実は不幸の基である。

「臨終の相」が、その人が幸せ(成仏)だったかを見る基準となる。
極論だが、何かしら無念を残して他界し、もしも来世、動物に生まれてしまったら、
その人は「それでよかった」といえるだろうか。
また、「1000兆円のお金と生涯自由な時間」を手に入れた人よりも、「山谷荒野にあっても、それ以上の自由自在な精神を持っている人」の方が 「幸せ」だと仏教では説く。例えばビル・ゲイツ氏が裸一貫で赤道直下の無人島に放り投げられたとする。方やアマゾンの奥地の土人も一緒にここに放り投げら れたら、どっちが人生に強いか。ここでは土人が「富豪」となる。

 話は戻るが、同じ学校で同じ時間勉強しても、100人生徒がいたら、どうしても成績は100通りになる。かといって、0点が悪くて100点がいい のか。しかし、どんなに「平等」を訴えても成績で生き方を変えられる世の中のシステムも現実にはある。まるで椅子取りゲーム。騒いでも仕方がない。しかし また、椅子取りゲームの、椅子を譲った側が成功することが実に多い。
 東大目指して一生懸命勉強した人が落選し、死ぬ気で勉強しなくても受かる人さえいる。
そしてまた、東大へいったからといってエリートになるとは限らない。エリートになったからといって幸せになるとは限らない。オウム真理教犯罪者に東大卒がなぜ多かったのか。
小学校しか出ていなくても大会社に社長になる人もいる。だから、「(仮)億万長者育成学校」へ通っても千差万別。大社長になっても不幸になる人もいる。

 「金持ち父さん」と寸分違わずまったく同じことをしても100%金持ちになれるとは限らない。
晴れて大富豪になったとしても、幸せになれる保障はない。
大富豪になって、お金の正しい知識と強い精神力を身につけたとしても、
そうなった途端に、運命のいたずらか不慮の事故や不治の病になって苦しむ人がいる。
大富豪が「非業の死」を迎え「お金を恨んだ」たという記録は繁多に存在する。
世間では「社会の保障はあてにならない」とわめいているが、「富豪になっても幸せの保障は無い」という言葉も学習しなくてはいけない。


ここに、「差別即平等」「平等即差別」がある。


「平等」を意識しすぎた人は自ら差別で苦しむことになる。
昔(昭和の中期)は、いじめっ子もいじめられっこも仲良く遊んでいた。
差別を設けたことにより、平等に遊べたのである。
しかし、現代は「平等」を掲げた教育により、子供たちは自分の能力
という差別に苦しんでかえっていじめや自殺が増えてしまった。

A.1000円のお金でも自由自在に生きていける智恵をもった人。
B.1000万円手に入れたことによりかえって不幸になる人。
C.Aの人が1000万円手にして、1万倍の自由を手に入れる。


普通に考えれば、Cが幸せな気がする。私もそれを選びたい。
でも、本当はそうでないのが、仏教の視点。縁によって心はコロコロ変わる。


 日蓮大聖人いわく
「若し己心の外に法ありと思はヾ全く妙法にあらず」と。


つまり、地球の中に自分がいるのではなく、この地球も宇宙も、因果もみんな、
本来は自分の命の中に存在していると。
この御文は非常に重要な御文ですが、信仰を体感した者でなければ
理解しがたく表現が難しいので、今回は敢えて触れません。

◎私なりに、自分の信仰する仏教の視座からごくごく簡単に紐解いてみました。
 (不適切な部分があるかもしれません。ご了承下さい)

仏教の初歩入門の「九識論」から簡単に。

前回の日記で「心の財(たから)」がもっとも大切であると書きました。
この、「心の財」「心の磨き方」が、世の中の人は「赤子の如し」で理解していない。
「心の奥底」=一種の深層心理があると、やっと科学でも証明されつつあり、
自己啓発セミナー等で使われている。、
この、世間の言う「深層心理」という概念も、実に浅い。まだまだ氷山の一角。
この「深層心理」(仏教では第七識=未那識)を、どんなに鍛えようとも、
人間は変わらない。ホームレスが一時期自己啓発を受けて社会復帰しても、
やがて「やはり蚊帳がいい」といって戻ってしまう。
第七識の奥には第八識「阿頼耶識(あらやしき)」という、無尽蔵の「業」を蓄えた部分がある「宿業」ともいう。世間でいう「宿命」に近い部分。
ここを変えないことには人生の根本は絶対に変わらない。


参考までに、「阿頼耶識」の阿頼耶(アラヤ)とは、積もる「蔵」という意味で、
たとえばヒマラヤは、「雪him」+「阿頼耶(=蔵)alaya」の合成語だそうです。
パソコンでいう、大容量のデータが蓄積されたHDという感覚にも似ている気がします。
宇宙の誕生と同時にずっとはるか昔からあった、我々の生命、
その長い間に蓄積された「業」が、科学や成功哲学、自己啓発や努力だけで変えようとしても
焼け石に水。

それを変えるのが仏教の醍醐味。
つまり、その更に奥、第九識「阿摩羅識(あまらしき)」。
誰もが内在している最強の「仏」の心の所在地。
この、「仏界」の湧現=成仏こそが絶対的幸福と説かれている。
前の「阿頼耶識」に蓄積された全ての「宿業」を、全部プラスにし、「変毒為薬」する
最強の部分=命の根源。「九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都(みやこ)」
この修行こそが、すべてを解き明かす鍵である。

この仏教の入門「九識」だけでも、全部述べるには数年かかるほど数多な法門です。

「アフリカの靴屋」は有名な話。

それに似た話で、「毒蛇のたとえ」をします。

 ある二人の人が旅先のジャングルの中で「宝さがし」をしています。
その途上、二人の前に恐ろしい毒蛇が現れました。一人Aはそれを「こいつはマイナスだ。噛まれたらたまったものではない。俺は宝(プラス)となる幻の動物だけを狙うのだ」といって
その蛇を避けて一人で奥地へと入り込むのでした。
方やもう一人Bは、相対する毒蛇という毒蛇を捕まえて麻袋に保管する行動をとりました。

(話は端折ります)

 Aは、ジャングルの奥地で幸いにも「狩の達人」と「道案内」に出会い、
見事に「幻の動物」を捕獲することに成功しました。長者の権利は手に入れたのです。
方やBは、捕まえたものといえば、あらゆる種類の「毒蛇」
ここまでだけで判断すれば、成功者はAだと思います。
さて、本国へ帰る前、Bの人はあらゆる毒蛇の性質を知り尽くすことに面白さを感じていました。なおかつ、途上にて猛獣が現れても毒蛇をもってそれを防ぐことができた。
「毒をもって毒を制す」に近いことです。

しかし、Aの人は、本国へ帰る直前の道で、自身の宝の重さに気をとられてか毒蛇に噛まれてしまうのです。そして、身動きがとれなくなってしまったところで、猛獣に襲われて非業の死を迎えました。
Bの人が、遅れてその道を通ったとき、ひどく悲しんだわけですが、Aの人が残した「幻の動物」を持ち帰えってお金に代え、その資金である研究をはじめました。
それが、「血清」です。毒蛇に噛まれたときに使う薬「血清」は、毒蛇の毒から作るのです。
この研究に成功したBの人は、未来永劫に亘って「人の役に立つ薬」を作り、未来永劫の長者となりました。

つまり、この話の根本は「マイナスを避ける人はマイナスに苦しむ」、「何がプラスで何がマイナスなのかの判断基準を正しく知る」ということです。
世の中は毒だらけなのです。毒を基準に生きていかないと成功しないということです。
仏の心=世の中のすべてをの毒を薬にできる自由自在な境涯。毒を薬と見る。

日蓮大聖人いわく
「千年のかるかやも一時にはひ(灰)となる」 と。
どんなに大富豪になろうとも、堕ちるときは一瞬である。


不幸の根源は間違った思想・哲学・宗教であり、「災いを千里の外より招きよせる」と。
もちろん、転じて「さいわいを万里の外よりあつむべし」でいくべし。
そして「三財」は、正しい御本尊を保ち「南無妙法蓮華経」を唱え信じ、
慈悲深く生きる人には必ず 付いてまわると説かれている。強く自在な精神力を持った人こそ「鬼に金棒」と説かれている。
心強ければ縁するもの全てを自在に動かし、毒さえも薬に変えてしまうと。
すべての環境を「極楽」にしてしまう。
逆に、心の歯車が狂ってしまうと、すべてをダメにしてしまう、と。


・しっかりとした財力・経済力=「蔵の財」
・経済力を最善に動かせる健康な体=「身の財」
・全てを正しく自在に動かして金棒にすべく最強の心=「心の財」

この3つ、のうち、特に「蔵の財」だけに執着すると間違いなく不幸を招くという。
まずは「心の財」が第一であると。
しかし世の中は「蔵の財」を得てから「身の財」、 「心の財」を順番に埋めようとするが、「蔵の財」に執着している間に「心の財」や「身の財」を失って本末転倒になる人がどれだけ多い事か。
「心の財」を持っている人は「蔵の財」 を失っても絶対に失敗 しない。

恥ずかしながら私は今まで信仰をきちんとしてこなかった。
ゆえに不器用に生きてきた。
若いころ、莫大なお金がありながら使い道を誤った。

 お寺には、三財持ち合わせて成功している賢い仲間・先輩が
あれほどたくさんいるというのに…。 もっと早く見習うべきだった。
でも幸い、心だけは絶対に凹まなかった。
私はこれから、正しく信仰を実践して心を磨いてゆく。
「三財」すべてを持ち合わせ、 ゆとりの部分は世のため人のため、知恩報恩のために楽しく振舞いたい!

自殺者の出ない世の中に変えてゆきたい!