病院帰り。


奈良は盆地で、いろんな災害から守られている土地だと教わってきたけど

最近ことに

車を走らせていると360度見渡しても山で

本当に囲まれているのだと改めて思う。



時折、うんざりしてしまう。


そう、素直に思っていると

山々が微笑んでくれたように感じる。



悲しいくらい自然なのだ、


離れてしまうと、恋しくなるのだろうな。



良くも悪くも保守的な土地である。


太古は革新的であったのではないだろうかと、勝手にイメージしてるんだけど。



行動しない不動心ではなく、革新的な不動神を心に。


山はご神体でもありまする。



今日の父は眼を開いてくれたけど、

まるであの世に半ばいるようだった。


言葉をかけても通じあってないのがわかる。


うっすぺらい、私の口から出る言葉に自分で残念に思った。


言葉を使わない方が通じあっている気がしていた。



3日ほど前は、うすく眼を開き

赤ちゃんのように嬉しそうにしてくれていた。


誰もが赤子のとき、こんな顔で

両親やきょうだいや、自分を愛しい目で見つめていてくれる人に

愛を伝えていたのだと思う。


愛や悟りを目指している人もいるけども、

過去の私もそう)

私たちは、そもそも愛と悟りの姿そのものから始まっている。


忘れてしまっても、必ず思い出す。


本当に大切なことは、離れてしまっても

棄てたように感じ責めることがあっても


必ず戻ってくる。



そんなことを、感じている。



だから、手放したいとき

棄ててしまいたいとき


安心して、それをしていいのだ。




棄てるって、どうしてこんな悲しい響きがするのだろう…




太宰治をあんなに拒否してたのに、


まるで自分に感じる。



あの人もあの人もあの人も


きっと自分なんだろうな。



不思議です。