「死」は敗北ではない。

 

死に時が来たら、私はスイスへ行って200万円払って安楽死をしようと考えている。世界で唯一、スイスは外国人にも安楽死が法的に容認されている国である。

 

 

なんと素晴らしい国だろう。

 

 

その意図があるため、私は国民健康保険以外の医療保険(民間保険)に加入していない。一般的なガン保険や女性特有のガン保険に加入していない。ガンを発病したら、国民健康保険でカバーできる範囲内の治療をのみを行い、余命数ヶ月宣言を受けた時点でスイスへ渡り、安楽死する心づもりだ。

 

今から21年前、アメリカでDNA検査を受けた。民間企業が行っていたDNA検査は当時アメリカで大流行りしていた。遺伝子を調べることにより、その人が将来発病する可能性がある病名を導き出す検査だった。

 

私の検査結果は、乳ガンの発病率が確か76%だか78%と出た。祖母は乳ガンで死んだ。信ぴょう性が高い。ちなみに父は大腸ガン、叔母は舌ガンで死んだ。叔父は首のリンパがんを患ったが早期発見で生き延びた。錚々たるガン家系にふさわしい検査結果だった。

 

当時30歳だった私は、正直、ビビりまくった。ガンで死にたくないと思い、食生活と生活習慣を180度改善した。肉食からビーガンへ、運動嫌いからジム通いと波乗りの生活に一転した。惰性なのか習慣なのか、今でも健康的な食習慣と生活習慣は続いている。ビーガンだし、運動はこれといってやらないが日本に住むようになってから、とにかくよく歩くようになった。

 

たまに、思う。

 

 

「やばい。このままではガンになれないぞ。」

 

 

健康的すぎて、ガンになれない。頼りになるのはストレスが半端じゃなく多い人生だってことぐらいだ。がしかし、こっちも、苦労を重ねると打たれ強くなるのでストレスへ抗体ができてくる。

 

そこで、定期的に身体に悪いとされるものを食べるように習慣づけている。カップラーメン、コンビニ弁当、冷凍食品、スーパーの惣菜、スナック菓子などを食べる。ところが、日頃の食習慣がそれらの食べ物のみで仕上がっている人が長生きをしているのを見ると、効果のほどを疑ってしまう。本当に効き目はあるのだろうか?と。

 

そこで、長生きしないように、つまり短命であるようにと思い、「良い人キャンペーン」を実施している。キャンペーンは通常ある一定期間だけやって終わるものだが、私のキャンペーンは夫が死んだ時から継続しているので、そろそろ7年になる。

 

誰に対しても、せいぜい良い人であろうと努めている。人には見返りを期待せずに親切にする。たまにバカを見て気持ちが腐る時もあるが、3日ほど腐った後は、切り口から青々とした新芽が生えてきて元に戻る。

 

夫が死んで2週間後の辛い時にハワイから日本に電話をしたら、「あなたが生きて日本に戻ると遺産相続問題が面倒臭くなるから、頼むから、日本へは帰らず、そのままハワイで死んでくれ。」と言えた母と姉ですら、優しく扱っている。彼女たちは私の「良い人キャンペーン」の上客だ。

 

 

こういう生活を計画的に続けていれば、早いうちにガンになって死ねるのだろうか。

 

 

「長生きはしたくない」

「自分の人生だから、最後の幕は自分でおろしたい」

「夫が死んだ時に私も死んだ。今は魂の抜けた後の抜け殻を持て余しているだけだ」

「私はもう十分に生きたと思える。今世はもう十分満喫したので早く終わりたい」

「今死んでも、100歳で死んでも、私の場合は何も変わらない」

「夫が死んだ後の人生の目標は常に、少しでも早く死ぬことだ」

「これは自殺願望とは異なる」

 

 

そんなことを口にすると、世間はビビる。だから絶対に言わない。心に秘めている。

 

 

今の日本は長生き信仰が異常に過熱していると思う。こんなに長生きしたい国民は、地球上で日本人だけだ。平均寿命が86歳かもしれないが、健康寿命は75歳だと言われている。つまり10年間の寝たきり期間があるということだ。本来なら死ぬところを、薬でただ長引かせているだけの状態を「生きている」と言えるのだろうか?

 

自分の意思で行動できなくなり、植物状態になったり、寝たきりになったりした人間に自らの意思で人生を終える選択肢が与えられているべきではなかろうかと、私は本気で思う。それでも生きたい人は生きれば良い。その人たちまでを殺せとは言っていない。ただ、死にたい人に死ぬ権利を与えるべきだと思うのだが、どうだろう?

 

安楽死の問題は常に賛否両論あって、非常にセンシティブな話題だ。読者のみなさんの中にも反対意見を持つ方が多いことだろう。日本政府が安楽死を合法化することは、まず、ないだろうなあ。今から100年経っても、ないと思う。