私たちは他人の為に生きているのではない。自分の為に生きている。それが大前提。がしかし、他人から必要とされることで自分の存在に意義が持てることも確かである。結局、「必要とされている感」と「幸福感」は比例する関係なのである。

 

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あれは年末の出来事だった。突然、姉が私にこんなことを言ってきた。ちなみに会話に登場する“Aちゃん”は姉の長男である。

 

 

「この前、Aちゃんに『ブルちゃん、就職できひんで困ってはるわー。雇ってもらえへんらしいでー。』って言うたん。それで『ブルちゃんが就職できひんってことは、もし私が就職活動したら私も雇ってもらえへんってことかなあ?』って言うたら、Aちゃんが『当たり前。あんたらは社会から必要とされてへん人間やし。』って言うねん!大笑いしたわ!」

 

 

姉はそう言ってゲラゲラ笑った。

 

 

私は即座に嫌な気分になった。姉はいいよ。だって、姉は実家に住んで実家の店を手伝っているから、これまでもこれからも、姉が履歴書書いて就職活動をすることは有り得ない。だから仮に社会から必要とされていなかったとしても、仕事もあれば収入もある。だから、痛くもかゆくもないだろう。

 

一方、私にとって甥の言葉は侮辱以外の何物でもない。だって、就職できないことが事実だから、真実は耳に痛い。

 

だけど、私だって生まれた時から51歳だったわけじゃない。若い時もあったし、まともに仕事をしていた時期もあった。あったというか、長かった。人並みに働いて人並みの収入を得ていた。アメリカで自力で起業して従業員に給料払って、誰の世話にもならずに自分の甲斐性で生きていた時代もあった。

 

二十歳そこそこのまだ就職もしたことがない小僧から、そんなことを言われる筋合いはない。

 

言いたいことは沢山あった。でも、私は一言も言い返さなかった。姉は悪気はないが、子供の頃から人の嫌がることを言って、言われた方が困った顔をしたり傷心の顔をするのを見て嬉しくなる性格である。姉の言葉に突っかかって災難を被るより、さらっと流しておく方が楽なのだ。

 

だけど、自分が「社会から必要とされていない」人間だという思いは心に残った。

 

それは私が夫を喪って以来ずっと、心に抱えてきた最大の心のハードルだ。そのハードルを越えるために、この6年間の一分一秒をガムシャラで生きてきた。それを知っているくせに私に対してそれを言う姉と甥が愚かに思えたが、それ以上に愚かに思えたのは「社会から必要とされていない」自分自身だった。

 

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その数日後だった。私のフェイスブックの投稿に知人がコメントした。

 

 

知人「いつも京都の写真楽しみにしてるよ!暇で一人暮らしで、羨ましい!」

 

 

彼女はハワイ時代の知人だ。彼女は今もハワイに住んでいる。私のハワイを離れる決心が決して簡単ではなかったことを彼女はよく知っているはずだ。彼女とは夫の生前からの知り合いで、夫とも面識が深かった。現在の私が好きで暇な一人暮らしを心底エンジョイしている訳じゃないことも分かっているはずである。

 

悪気はなかったと思うので、さらっと流したい。私にモノを言う時は気をつけろ、とは言わないけど、もう少し細かい配慮が欲しかった。

 

さらっと流したものの、つまんない写真を撮ってフェイスブックに投稿している自分自身がアホに思えた。

 

私の投稿写真は、自分一人で訪れた場所ばかり。大勢で集まってパーティーした写真や、セミナー参加の写真はない。自分の向上心、社会参加意識の高さ、人気者アピールはしない。と言うか、出来ない。元から無いから、そういったものが、私の中に。

 

たまに訪れた先でふと目にした光景が何とも京都らしくて素晴らしい時に、私の中の外人性が顔を出して、思わず写真を撮り投稿したくなる。

 

でもきっと、フェイスブックに集う人たちが見たいのはそんな写真じゃない。誰と誰が繋がっているかをチェックできて、私利私欲のために役立ちそうな人を探して紹介してもらう将来のコネクション作りのネタになるものが正しい投稿なんだろう。

 

アカウントを削除したくなるぐらい落ち込んでしまった。

 

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そして、年が明けた。大晦日から風邪でダウン。正月早々、一人で寝込んでいた。うちはテレビが無いから、もうほんと、暇で暇で。食べ物も買い置きしておいたものしかないので、お餅にも飽きた。

 

テレビがないので仕方なく、アマゾンプライムで映画をみた。

 

 

樹木希林と阿部寛主演の映画、タイトルなんだったかな?

 

 

とにかく、その映画の中で、樹木希林演じるダメ息子のお母さんが、花も咲かない、実もつけない蜜柑の木を何十年も大切に世話している。それを見た息子は、何の役にも立たない木を大切にする意味がわからないと言う。するとお母さんはこう語る。

 

 

「この木は葉っぱを沢山つけるのよ。そしたら青虫がその葉っぱを沢山食べて、蝶々になるの。大きいだけで実はならないけれど、何かの役に立っているのよ。」

 

 

その台詞を聞いた時、ここ2週間ほど悩んでいたことへの答えを授かったと思った。

 

 

「何かの役に立っている。」

 

 

きっと、私も、何かの役に立っている。子供を産めなくて、母になれなくて、夫に死なれて、もう仕事もできなくて、今はもう社会のどこにも私の仕事の能力を必要としている人がいなくて、女としても本来果たすべき役割は果たしていない。

 

だけど、それ以外のことできっと何かの役に立っている。私が知らないだけで、どこかで私の存在が、私が生きているっているだけの事実が、何かの役に立っているかもしれない。

 

 

そう思えたんだ・・・

 

 

そして、今日。ハワイの友人夫婦から年賀状が届いた。こう書かれていた。

 

 

「あなたのフェイスブックへの投稿写真を、私たち二人とも、とても楽しみにしているのよ。もしタイムトラベルが可能なら、すぐにそっちに飛んでいって訪れてみたい素敵な場所が京都にはまだまだ沢山あるのね。私たち、何十回も日本を訪れたことがあるし、京都にも行ったことがあるけど、あなたの写真に出てくる場所には一度も行ったことがないの。きっと観光客では行けない場所なんでしょうね。観光客が行ける場所より、あなたの写真の場所の方に興味があるわ。野菜の市場に行ってみたい。今度京都を訪れる時にはぜひ案内してね。写真、楽しみにしているから、投稿し続けてね!元気でね。ご主人はいつも空からあなたを見守っているわよ。」

 

 

ああ、泣いてしまった。この夫婦は、長年の知り合いで、私がまだハワイにいた頃に長男を事故で亡くしている。大切な人を喪う痛みを知っているせいか、いつも私の心にそっと寄り添ってくれる。そして、また今回も。友人の言葉が今年もらった最も嬉しいお年玉となった。

 

 

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私と同じような悩みを抱えて、同じところで足踏みをしている、貴方へ・・・

 

 

きっと、貴方も私も、社会から必要とされています。社会全体ではなくても、その一部から。あるいはもっと少ない部分から。それでも十分ですよね。朝が来たらお布団から出て服に着替える理由になります。

 

きっと、貴方と私の、愚かだったり無意味に思える行動が誰かを喜ばせています。目の前で「ありがとう!」とは言われないけど。密かに喜んだり、楽しんだり、心待ちにしている人がいます。だから、やめないで続けましょう。

 

 

「誰からも必要とされていない」という思いは、自分が自分を必要をしていないことでもあります。たとえ世界中の人が自分を必要としなくなっても、自分だけは自分を必要としていたいものです。そうでないと、自分が可哀想です。それでなくても簡単に他人から軽視されたり適当に扱われやすいこのご時世です。自分ぐらいは自分を必要として大切に扱いたいものですね。

 

 

新しい年が始まりました。2019年、どんな年になるでしょうか。穏やかであってほしいものです。今日は初詣に行きました。金運上昇のお守りを買いました。おみくじを引いたら大吉でした。恋おみくじを引いたら中吉でした。桜の花びらが舞う下で恋心を受け止めてくれる人と出会うそうです。桜ということは、春ですね。春なんて、すぐですよ。まだ心の準備ができていません。

 

などと、新年早々、バカを言っていますが、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

ブルより