「貴方へ」とか言っておきながら、実は私自身、少し人嫌いなところがある。別に人付き合いが苦手な訳じゃなし、人間関係が面倒臭いとも思わない。

 

ただ、大勢で集まってワイワイガヤガヤ騒ぐのは苦手だ。神経が疲れてしまう。職場の宴会なんて真っ平御免だ。それならいっそ、山奥を流れる清流のほとりに一人腰を下ろし、あぐらをかいて、水の音と鳥のさえずり以外なにも聞こえない中で梅干し入りのおにぎりに食らいつくような時間の過ごし方の方が心底楽しいと思える。話し相手すらいなくても。

 

まずそれが「私の基本形」として、さて、話はここからだ。

 

そんな基本形の私が、人間の心の琴線(別名:感情)を真の意味で震わせることが出来るのは物でも場所でもない、自分を取り囲むように存在する人間だけなんだと痛感させられた話をしたい。

 

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Facebookをやっている人はご存知だろうが、便利すぎて不便な機能がある。過去の思い出の再表示だ。過去と同じ日付の投稿が自動的に表示され『○年前の投稿をシェアしませんか?』だったかな?そんな文言にご丁寧に写真までつけてFacebookが再投稿の提案をしてくるのだ。

 

「懐かしい!6年前こんなことをしていました!」みたいなコメントを添えて素直にシェアするユーザーも大勢いる中で、その機能に完全にシラけてしまう私はなんとも捻くれた心の持ち主よ。アーメン。

 

数日前、またまた過去の思い出が再表示された訳だが、なぜか今回はシラけた気分にならなかった。むしろ「自分の周りに人間の存在があることは、大切なことなんだなあ。周りに人間がいてくれて初めて感情が芽生えたり感動したり出来るんだよ。人は一人では生きられないんだ。」と思えた。

 

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2年前のその日、私はイタリアのベニスにいた。

 

旅行会社のパッケージ旅行を購入したが個人旅行に近い行程だったので、まるで一人旅をしているような気分を満喫できた。

 

その日も私は一人で早朝からボートでベネチア本島に渡り、サン・マルコ広場を出発点としてグランド・カナルへ向けて歩いていた。狭い通路の両脇には郷土品を売る土産物屋や飲食店が軒を並べてぎっしりと立ち並んでいた。

 

サン・マルコ寺院には行かなかった。外観だけで十分。ローマ、バチカン、フィレンツェの街で既に何軒もの有名な寺院や教会を見学した。どれも見事な建築様式だった。どれも大きすぎるぐらい大きな建物だった。美しく装飾されていた。そして、展示キャプションと言えばいいのだろうか?解説、説明書き?至る所に設置されていた。

 

キリスト教には多くの宗派があるが、その中でもカソリック教会の建築様式や内装デザインは群を抜いて美しいと思う。ステンドグラスに差し込む光が色取り取りに染められて床を彩る。地上からほど遠い高さに吊るされたマリア像が見上げる人々に微笑みかける。誰が奏でているのか。パイプオルガンの壮大な音色が鳴り響く。

 

 

でも、私は、全く感動しなかった。

 

 

どれを見ても感動しなかった。

 

 

美しいけど、美しいだけだった。

 

 

世界には美しいものなんて沢山ある。

 

 

美しいもの慣れしているからね。

 

 

いちいち感動なんてしないんだ。きっと。

 

 

だからサン・マルコ寺院なんてパスして、時間を惜しむようにベネチアの狭い路地歩きを満喫していた。と、その時だった。角を曲がると右方向に小さな教会が現れた。

 

 

こんなところに教会。

それにしても小さい。

京都にある私の実家の菩提寺より小さい。

入り口のドアから部屋の一番奥の壁が見えている。

しかも、なんだ?この人込みは。

それも、お婆ちゃんとかお爺ちゃんばっかり。

小さい正面ドアからウジャウジャ出てくるではないか。

 

おお!今日は日曜日だ。

ミサだ。

日曜礼拝だ。

今ちょうど終わったに違いない。

思えば、これまで見た教会は観光スポットばかり。

地元レベルのリアルな教会は見たことがない。

よし、入ってみよう。

人の流れに逆らって中へ入った。

 

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結果を先に言おう。

 

私はその教会で泣いたのだ。涙が溢れて止まらなくなったのだ。

 

背中をさすってくれる手には深い皴がくっきりと刻まれている。見知らぬ老女の手だった。私はレザージャケットを着ていた。人の手の温もりが伝わることなど有りえない。だけど伝わったのだ。私の背中は確かに老女の手の温もりを感じていた。

 

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天井一面のステンドグラスには数々のエンジェルとイエス・キリストが描かれていたし、壁際にはちゃんとマリア像もあった。さすがイタリアだ。でもこれまでにみた教会とは比べ物にならないような庶民派スタイルだった。にも関わらず、その教会は美しすぎた。

 

そこには現実があった。観光スポットにはなかった空間がその教会にはあった。そこに集い、そこで祈り、そこで支え合う人々がリアルに生きる空間だった。人々の熱気があった。その教会の一番の美しさはそこに集う人々の鼓動、雑談、笑い、生命エネルギーだった。

 

私の目の前にロウソクが置かれていることに気がついた。ロウソクの横にはコインが沢山入った箱。きっと日本のお寺のお線香と同じシステムだろう。キリスト教徒ではない私が、何気にコインを取り出しロウソクを一本買って灯して燭台に立てた。

 

燭台のすぐ脇の祈りを捧げるための台が目に入った。何かに導かれるように台に膝まづき、手を合わせて、目を閉じた・・・そう。目を閉じた瞬間が涙が溢れ出た瞬間だった。

 

それまで我慢して、我慢して、抑えていた夫への思慕の感情が突然ダムの決壊のように溢れ出た。どうして死んでしまったのか?どうして私を置いていったのか?なぜ殺されなければいけなかったのか?なぜそれが彼でなければならなかったのか?

 

止まらない涙。

知らない外国の教会で、咽び泣く。

 

ふと、背中に何かを感じた。

振り向くと、イタリア人の顔をした老女が私の背中を優しく撫ぜていた。

"My husband was killed."

老女は英語を理解していない様子だった。

でも私が愛する人の死を嘆いていることを理解している様子だった。

彼女の暖かい手は私の冷え切った心を温めようとしているかのようだった。

 

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「人が嫌い」だと言って、人を避けていつも独りぼっちで過ごすことは簡単だ。一人になって自分の心と語り合う時間も、もちろん必要だと思う。だけど、人を避けていつもいつも一人でいるだけだと、行動も、考え方も、同じことの繰り返しになり生活に意外性がなくなる。何を見ても特に心が動かなくなり、ついには感情さえもなくなってしまう。

 

そんな固まった心に突然の風穴を開けてくれるのが「他人」だ。たまには厄介な風穴もある。良いことばかりじゃない。良い人ばかりじゃない。面倒臭い事もある。だけど「他人」がいるから「自分」を感じることができるし、「他人」に振り回されて「自分」の感情に気づくこともある。「他人」は決して邪魔な存在ではない。

 

所詮人間は山の中で独りぼっち「仙人暮らし」には限度があるということなんだ。梅干し入りのおにぎりだって、一人で食べるより誰かと食べる方が美味しいかもしれない。「美味しいね!」と言い合えて初めて美味しさを感じるのかもしれない。

 

特に人を好きになる必要はない。

そして、特に人を嫌いになる必要もない。

 

私はそう思うけど、貴方は、どうかな?