西大路四条にある淳和院跡碑です。

 

 

平安京右京四条二坊にあり、四町を有していました。淳和天皇の離宮及び後院(退位後の住まい)であったところ。

弘仁4年(813年)、嵯峨天皇がこの地にあった南池院と呼ばれる離宮に行幸しています。弘仁14年、嵯峨天皇が譲位。かつて薬子の変で兄平城太上天皇の皇子高岳親王を廃太子にした嵯峨天皇は実子を即皇太子とすることを良しとせず、異母弟の大伴親王を皇太弟に立てており、これが即位して淳和天皇となります。淳和天皇は嵯峨太上天皇の皇子正良親王を皇太子に立てました。淳和天皇はこの地に離宮を設け、淳和院、或いは西院と呼ばれます。天長10年(833年)、淳和天皇譲位、正良親王が即位して仁明天皇となります。淳和太上天皇は淳和院を後院として移りました。仁明天皇の皇太子には淳和太上天皇の皇子恒貞親王が立てられましたが、仁明天皇は藤原冬嗣の娘藤原順子との間に道康親王を儲けており、淳和太上天皇と恒貞親王は再三皇太子を辞退したとされます。

承和9年、淳和太上天皇崩。後院にちなんで淳和天皇と諡号され、また淳和院の別名から西院帝とも呼ばれました。その後、淳和院は淳和太上天皇の后・皇太后正子内親王の御所となります。同年、嵯峨太上天皇が崩じ、承和の変が勃発。伴健岑と橘逸勢が皇太子恒貞親王の身の上を案じて東国へ連れ去ろうとしたとする仁明天皇への謀反の罪で配流。恒貞親王は廃太子、道康親王が立太子します。貞観16年(874年)、焼失。太皇太后正子内親王が再建、尼寺とします。元慶3年(879年)、正子内親王崩。元慶5年、淳和天皇・正子内親王の陵墓と大覚寺、檀林寺の管理を行う淳和院別当が置かれます。恒貞親王が没すると、淳和院は用いられることなく廃絶。淳和院別当は、保延6年(1140年)、源雅定が淳和院別当となって以来、源氏長者による相続となり、明治維新まで続きました。

付近には淳和院の別名である西院の地名が残り、淳和院の鎮守社として創建された西院春日神社があります。

 

 

 

淳和院跡碑;京都市右京区西大路四条