小田原にある北條早雲公像です。

 

 

一代で伊豆・相模の戦国大名となった北条早雲(伊勢盛時)の銅像。

JR小田原駅西口ロータリーにあります。

小田原城を奪取したときに用いたとされる火牛の計の説話をモチーフにしています。韮山城主・伊勢盛時は、小田原城主・大森藤頼に、鹿狩りのための勢子を小田原城の裏山に入れさせてほしいと頼みます。昼のうちに勢子に変装した家臣を裏山に潜ませ、夜になると家臣たちが牛の角に火をつけて小田原城目掛けて一斉に追い、驚いた藤頼は逃亡、小田原城を乗っ取ったという説話。

火牛の計は、斉の田単が用いたとされる戦法。木曽義仲にも同様の説話があり、史実とはされていないようです。

 

 

北条早雲(伊勢宗瑞/?~1519)は伊豆・相模の戦国大名。名は伊勢新九郎盛時。法名、宗瑞。一代で伊豆・相模の戦国大名に成り上がった下克上の象徴とされます。父は一説に高越山城主・伊勢盛定。前半生は不詳。姉の北川殿は駿河の守護大名今川義忠に嫁ぐも、文明8年(1476年)、義忠は戦死。嫡子龍王丸は幼少であり、犬懸上杉家当主上杉政憲は外孫の小鹿範満(義忠の従弟)を当主にするべく軍事介入。盛時は前将軍足利義政の内書を得て駿河へ下り、甥の龍王丸成人まで範満を当主とします。長享元年(1487年)、龍王丸が17歳となっても家督は戻されず、盛時は姉北川殿の要請により範満を攻め滅ぼし、龍王丸は家督を継いで今川氏親となります。盛時は氏親から今川家客将に迎えられて所領を受け、興国寺城を築きます。明応2年(1493年)、明応の政変により足利義澄が室町幕府11代将軍となると、その異母兄で義澄の母を殺害して2代堀越公方となっていた足利茶々丸を攻めて伊豆を手に入れ、韮山城を居城とします。氏親の命で斯波氏の守護国であった遠江国へ攻め込み、氏親を遠江守護とします。また、小田原城主大森藤頼を攻めて小田原城を手に入れました。盛時は伊豆・相模の戦国大名として今川から独立。永正15年(1518年)、氏綱に家督を譲り隠居。永正16年、死去。

北条早雲の名で知られますが、盛時が生前に出した文書はすべて伊勢姓であり、北条を名乗るのは氏綱以降。早雲は氏綱が父の死後に贈った号。

 

 

 

北條早雲公像;神奈川県小田原市荻窪350