木津川にある高倉神社です。


古都の礎-高倉神社

 

古く、この地には春日社があったと言います。

平安時代末期の治承4年(1180年)、諸国源氏にあてて平家打倒の追討令を出した以仁王は、平氏に追われ南都に落ち延びる途中、付近の光明山綺田で絶命。この社付近に葬られたと伝えられます。江戸時代後期頃からは春日社は別名高倉宮とも呼ばれ、以仁王を祀る社ともされたそうです(高倉宮は以仁王の呼称)。

明治16年、春日社は高倉神社と改称され、以仁王を祀る社となりました。現在、社の隣に以仁王墓があります。


古都の礎-高倉神社
古都の礎-高倉神社

 

拝所。


古都の礎-高倉神社

 

この奥に本殿。

祭神は以仁王。


古都の礎-高倉神社
古都の礎-高倉神社
古都の礎-高倉神社
 

高倉神社の横にある以仁王墓。宮内庁の管理になっています。

以仁王(1151~1180)は後白河天皇の第三皇子。母は藤原成子(高倉三位)。当初、出家するべく最雲法親王(堀河天皇皇子)の弟子となりますが、最雲法親王の没後、自ら還俗。八条院の女房と通じて八条院の御所に出入りし、八条院の猶子となります。八条院(子内親王;鳥羽天皇と美福門院の皇女)が鳥羽上皇の嫡女とされていたことから、以仁王は帝位を狙うようになったとされます。しかし、仁安3年(1168年)、異母弟高倉天皇が即位。以仁王は新王宣下を受けることもなく放置されます。治承3年(1179年)、平清盛は後白河法皇を幽閉して院政を停止、以仁王の所領を押収します(治承三年の政変)。同4月、以仁王は諸国源氏にあてて平氏打倒を呼びかける令旨を発布(以仁王の令旨)。このことが平氏に漏れ、同5月15日、以仁王は園城寺に逃亡。同22日、源頼政が以仁王を支援して園城寺に入ります。しかし、宛てにしていた比叡山延暦寺の支援を得られなかったため、同25日、南都興福寺を頼り源頼政と共に出立。同26日、落馬した以仁王は途中の宇治平等院で休息。しかし、平氏軍に追いつかれ、源頼政は平等院に残って防戦(平等院にて自害)。その間に以仁王は南都へ向かって逃げますが、この付近で平氏軍に討たれたと伝えられます。

 

 

 

高倉神社;京都府木津川市綺田神ノ木48