呼ばれたとしか思えないできごと

一の谷の合戦の日に一の谷へ行く


いつもご覧くださる皆様、

本当にありがとうございます。
  
心から感謝致します。

皆様にとって良い事が
 
たくさんありますように!


元々、今年行く予定でいましたが、


5月くらいを予定していました。


しかし、昨日いきなり、


そういえば一の谷の合戦って


旧暦で2月7日だったけど、


今年だと


いつになるのかと思い、


調べたら16日!(◎_◎;)


でした。


これは行った方がよいと


いうか、


もう呼ばれたとしか思えないと


思い、行きました。


とりあえず合戦範囲の東である


生田神社の生田の森からです。




古戦場の一部ですが、


想像以上に清々しかったです。


虹色の光も出ています。


この後は鵯越の逆落としで有名な


鵯越と多井畑八幡宮(明日の記事)


へ行った後、


メインの須磨寺、古戦場へ行きました。


途中、いくつか史跡がありますが、


それは明日以降の記事にします。


須磨寺は本坊の方から入りました。


虹が出ています。




本堂では法要をしていました。


父方と母方両方の先祖がからみ、


いわゆる見える人だった


母方の曾祖母があるアクションを


残しているので、


2家分のお灯明をあげました。




そして敦盛の首塚→弁慶の鐘→


義経の腰掛け松→敦盛の首洗い池の後は、


メインの源平の庭です。



敦盛の背後に虹が!

後世のものですが、


これはもろもろの


事情から見ないとダメだと


思っていたので見られてよかったです。


そしてこの後は直実にちなむ


蓮生院と宝物館を見ました。


宝物館には直実作の敦盛像や彼の笛などの


遺品が展示されています。


写真撮影禁止ではなかったのですが、


感情的に撮影できませんでした。


まず直実作の敦盛像は、


ひとこと言えば「敦盛」自身です。


そこに彼がいるという感じなのです。


そして遺品の数々は、


伝承もあるのかもしれませんが、


これも彼の大切なもので生の記録であり、


良い意味で生々しさが


伝わってくるのです。


ただ最も重さを感じたのは


直実自筆の南無阿弥陀仏の名号と


持ってきた平家の赤旗に


法然上人が書いたという


南無阿弥陀仏の名号でした。


直実はどんな思いで敦盛の姿を刻み、


これを書き、


戦場の中、赤旗を持ってきたと


思うといたたまれないですね。


彼は後年、伯父の久下直光との


所領争いもあり、


出家したとも言われますが、


それは最終トリガーであり、


敦盛のことや、


その前に参戦した戦い、


生き方もろもろへの思いがあったのは


真実だったと思えます。


私は研究関連や個人的事情もあり、


直実にはやはりフィルターを


かけてしまっていたと


も思いました。


伝わってくるのは非常に実直で、


人生を賭けて必死に供養をしたこと、


仕方がなかったとはいえ、


犯した罪に魂から向き合ったという


ことでした。


人によっては非常に重い場所です。


何で当日に行ったのか


わかった気がしましたし、


私にも気づきが必要だったのでしょう。


改めて諸神仏様やご先祖様といった


存在は大いなるものだと


痛感しました。


このことが


どなたかのお役にたちますように!

この世に本当の偶然はありません。

全ては必要だから起こっています。


そういうあなたとご縁があったからこそ、

本日、このブログで出会うことができました。

ここまでご覧くださり、

本当にありがとうございました。

皆様にとって良き日、


良き時間でありますように。


合掌


ありがとうございました。