菅谷文則氏

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信仰や生活の場として、日本人は石器時代から山に親しんできました。日本の歴史は山とともにあったのです。考古学の中に山岳遺跡を発掘する「山の考古学」というジャンルがあります。先日、亡くなられた前橿原考古学研究所所長の菅谷文則さんは、「山の考古学」で大きな足跡を残されました。とりわけ、大峰山について多くのことを教えてくださいました。

 

 

紀伊半島の南北に連なる大峰山脈は、古代から信仰の対象でした。吉野から熊野本宮までの80kmは「奥駈道」と呼ばれ、多くの修験者が尾根を歩き、経を唱え、危険な岩場で行を修めてきました。さまざまな伝説が書物に残されていますが、いつから人々が大峰に登っていたのかわかりませんでした。菅谷氏ら橿考所のメンバーは、それを考古学的に立証したのです。

 

奥駈道

 

 

■奇跡の黄金仏

 

 

大峰修験の中心となる山は、奈良県天川村の山上ヶ岳(1719m、大峯山ともいいます)です。山頂には日本で一番高所にある重要文化財である大峰山寺(大峯山寺)本堂や、役行者の前に蔵王権現が現れたとされる「湧出岩」があります。

 

 

平安時代には大峰ブームがありました。1007年には藤原道長、1049年に藤原頼道、1088年に藤原師通(もろみち)、1092年に白河上皇が登っています。道長は、本堂の南西の山頂にある湧出岩付近に金銅経筒(国宝)を埋めました。このあたりからは大正時代までに金銅経筒のほか、懸仏、仏具など多数の「金峯山経塚遺物」が見つかっています。

 

大峰山寺本堂

 

しかし、修験の聖堂である大峰山寺本堂の下に何が眠っているのかずっと謎のままでした。というのも、「竜(たつ)の口」と呼ばれる岩がある内々陣には「立ち入れば死ぬ」という言い伝えがあって、お気楽に発掘できる場所ではありません。本堂の解体修理が行われることになり、この機会を逃すまいと1982年から3年間、橿考所の菅谷氏らが発掘調査しました。

 

 

本堂下の整地層からは阿弥陀如来坐像と金製菩薩坐像の2体(重文)が見つかりました。いずれも3センチに満たない小像ですが、これは大発見でした。というのも、仏像は純金製だったのです。通常、仏像は表面をメッキするだけですが、この2体は体の芯までゴールドでできている。仏像の素材には、銅、粘土、麻布、木、石といろいろありますが、黄金仏はきわめて珍しい。日本ではこの2体を含めて3体しかありません。

 

純金阿弥陀如来坐像

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大峰はかつて、金峰山とか金御岳(きんのみたけ)と呼ばれ、大金脈があると信じられてきました。東大寺大仏の造立にかかわった良弁も金峰山で金の発見を祈願したとされています。実際に産出したのかどうかはわかりませんが、こうした黄金伝説があったことから純金製の仏像が奉納されたのでしょう。「日本紀略」には延喜5年(905)の記事「太上法皇参詣金峰山寺」があり、2体の黄金仏は宇多法皇参詣時の奉納品だと考えられています。

 

 

菅谷氏らが調べたところ、内々陣の「竜の口」から伸びる岩脈の裂け目に大量の灰や焼土が詰まっていて、その中には和同開珎や奈良三彩陶器など奈良時代の遺物がありました。奈良時代の人も山上ヶ岳に登って祭祀を行っていたことが確かめられました。銅板経、経筒、鏡なども見つかり、大峰山寺本堂は「山の正倉院」とも呼ばれています。

 

 

■笙ノ窟(しょうのいわや)

 

 

笙ノ窟www.kojitusanso.jp

 

 

上北山村の和佐又山スキー場から大普賢岳(1780m)に登る途中に「笙ノ窟」という岩窟があります。幅12㍍、高さ3.3㍍、奥行き7㍍。岩壁の下にあるため、岩でできた巨大な生物が口を開いているように見えます。修行者が籠るこの岩窟は、大峰山中にあって山上ヶ岳に匹敵する重要な修行場です。

 

 

大峰の山体の中には、神域や冥界などの異界があると考えられていました。山上ヶ岳の湧出岩が神域・冥界の出口なら、笙ノ窟は入口です。平安時代の歴史書「扶桑略記」の「道賢上人冥途記」は笙ノ窟を舞台にしていて、ダンテの「神曲」のような冥界遍歴譚になっています。941年8月、無言断食中に息絶えた僧・道賢は、執金剛神の案内で冥界を巡ります。日本太政威徳天となった菅原道真や、道真を左遷して地獄で苦しむ醍醐天皇らと会い13日後に蘇生しました。

 

 

西行も円空もこの岩窟を訪れました。鎌倉幕府の第三代将軍、源実朝ゆかりの不動明王も戦時中までまつられていました(現在、奈良国立博物館)。鎌倉にあっても冥途の入口として人口に膾炙するほど有名な場所だったのです。

 

 

菅野氏らは笙ノ窟の発掘で、修験者の参篭が平安時代初期から行われていたことを証明しました。出土したのは、土器類、銭貨、金銅製仏具、銅鏡片、水晶製五輪塔片などで、もっとも古い土器類は9世紀までさかのぼります。鉄釘が300本以上、礎石状の平石も見つかったので、岩窟の中には行者が籠るお堂があった可能性も出てきました。標高1450㍍、冬には氷点下10度を下回る寒冷と闇の中で、生死の境をさまよった行者たちの姿を、出土品は浮かび上がらせました。

 

 

■趣味と仕事

 

菅谷氏は奈良県東部の山間地、宇陀出身です。根っからの山好きで、若い頃は岩壁や冬山を登っていたそうです。趣味を仕事に生かせたというのは幸せなことですね。遺跡調査の功績から、山伏の称号「名誉正大先達」が贈られています。

 

 

菅谷氏の功績は「山の考古学」だけではありません。明日香村の飛鳥浄御原宮跡の調査でも著名ですし、鏡やシルクロードなど様々なテーマの本を書いています。それらをも支えたのは、「山屋」らしい行動力と粘り強さだったのではないかと思います。