君の名は 三葉と瀧


興行収入176億円を超え、歴代の邦画で4位となった。
トップ3の「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「もののけ姫」に迫る勢いだ。
新海誠監督の「君の名は。」を遅ればせながら見てきた。


飛騨に住む女子高校生の宮水三葉と、
東京の高校生、立花瀧の心が入れ替わり、
お互いを探す話である。


物語は多様な解釈を可能にする柔構造から成っていて、
すでに百家争鳴の感もあるが、
感じたことを書いてみたい。


①変身譚として

人間が動物に、動物が人間になるという変身譚は世界各地で古代から数知れず。
人間と人間、特に異性への変身(transgender fiction)としては、
私の世代では大林宣彦監督の「転校生」(1982年)を思い出す。
この翻案も多く、韓国でも数作の映画がある。


「君の名は。」は、主人公の十代という年齢設定からいっても「転校生」の亜種と言える。
ありふれたモチーフでありながら、陳腐でないのは、
時間において3年、居住地として東京と岐阜、
時空の隔たった二人が入れ替わるという新しい設定があるためだろう。
彗星衝突という壮大な「生と死」の要素を加えたことも大きい。


なお、人から人への変身譚としては、母娘が入れ替わる「チェンジ!」(1998年)、父娘の「パパとムスメの7日間」(2007年)など親子関係のドラマもある。


②君と出会った奇跡

最後まで涙腺が緩まない人は少ないだろう。
感動のツボは、三葉と瀧が出会えそうですれ違い、
やっとのことで邂逅できることだ。


「君と出会った奇跡がこの胸にあふれてる」は、
スピッツの「空も飛べるはず」だが、
人の出会いというのは実に不思議である。


ホモ・サピエンス(現生人類)の歴史は20万年。
地球の陸地は1億4000万平方キロメートルもある。
広大な時間と空間の中で、
点のような時空を共有できるというのは、やはり奇跡だろう。


なぜ、この人と今いっしょにいるのかと
普段はたいして考えることもなく、ありがたいと思うこともないが、
三葉と瀧は、その奇跡に思い至らせてくれる。
十代のまっすぐな恋愛感情も加味されているので、
切なくて、ジーンと来る。


③どこまでがリアルなのか

素直に作品を見ると、瀧のいる世界と三葉の世界、どちらも現実と思える。
しかし、穿った見方をすれば、
瀧のいる世界だけが現実で三葉の世界は想像の産物、
あるいは三葉のいる世界だけが現実という見方もできる。


このあいまいさが二人のキャラクターを神秘的にしている。
小野小町の和歌、「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」をモチーフにしたと新海監督は語っている。


④時を駆ける巫女=三葉

君の名は 隕石湖 


宮水三葉の母は夭逝し、父は家を出た。
三葉と妹(四葉)は祖母(一葉)に育てられている。


宮水家は飛騨の糸守町において神社を守る名家である。
祭りの日には、三葉は四葉とともに巫女となって舞う。
米を口にふくんで口噛み酒も造る。


酒を奉納するのは、山上にある祠だ。
それは、かつて隕石の衝突でできたクレーターのような窪地にある。
窪地にはあの世とこの世を隔てる川が流れる。
祠はその向こう、常世にある。


酒は自分の半分であると祖母は教える。
三葉の魂は常世の酒器の中で醸され、
3年後にそれを飲んだ瀧に乗り移る。



⑤三葉は死なない

糸守町の祭りの夜に彗星が落下して町は壊滅的な被害を受けた。
この町を訪れた瀧は、図書館にある犠牲者名簿の中に三葉の名前を見つけた。
3年前に死んでいたのである。


しかし、映画のクライマックス、彗星衝突の5年後とされる場面において、
瀧と三葉は東京で出会う。


これは幽霊なのか?
巫女である三葉は自在に復活できるのか?
あるいは、瀧によって再生された幻影か?
三葉が臨死の際に見た夢なのか?
3年を遡行した瀧(体は三葉)が避難を呼びかけ、
歴史が変わったから生き残ったという見方もあるようだ。

君の名は 彗星



⑥瀧という依り代

吉幾三の「おらこんな村いやだ。東京へ出るだ」のように、
三葉は田舎である糸守町を嫌っていた。
この熱烈な思いが発端となって瀧との入れ替わりが生じた。
しかし、瀧が糸守の女子高校生になる理由はなかった。
瀧は三葉に乗っ取られたのである。


カフカの「変身」において、
ある朝目が覚めると毒虫に変わっていたグレゴールと同様、
これは不条理な出来事なのだ。


多くの変身譚には伏線として強い現実逃避願望がある。
その懲罰として変身させられてしまうのである。
グレゴールの場合はセールスマン生活にうんざりしていた。


また、「山月記」(中島敦)の李徴は、
官吏として生きることをよしとせず、詩人として名を成すことを熱望していた。
虎になったのは「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の罰としてであった。


一方、瀧にはこれといって逃れたい現実はない。
三葉になることを望んだわけではないが、
かわいい女子高生になってみるのも悪くなく、
自分と三葉の役割を交互に楽しんでいた。
三葉の女子力のおかげで憧れの高倉先輩の好意を得ることもできた。
変身は不条理ではあったが、僥倖でもあった。


変身の最初の朝、グレゴールはベッドから起き上がることに難儀したが、
瀧は自分のふくらんだ胸を触ればよかった。


⑦結縁の象徴としての組紐

君の名は 組紐


京都、伊賀などの観光地でよく見かける組紐。
宮水家は祭具として組紐を作っている。
この物語では、人と人、時間を結ぶ象徴として登場する。


祖母の一葉は語る。
「糸をつなげることもむすび」
「人をつなげることもむすび」
「時間が流れることもむすび。全部神様の力や」


自由につないで解くことのできる紐に霊力を見る。
組紐の存在が、プロットが多く散漫になりかねない物語を引き締めている。


三葉が暮らしていたとされる
岐阜・飛騨市で6日、「君の名は。」の上映会があった。
映画館が市内に一軒もなく
市の交流文化センターで開かれた。
飛騨市内の駅や神社、図書館はファンの巡礼の舞台にもなっているそうだ。
モデルとなった場所にいることで、フィクションと自分のつながりを確認したいという気持ちがあるのだろう。これも「むすび」の一つだ。


⑧たそがれ時に会える

君の名は 山上の黄昏


祠のある山での三葉と瀧の束の間の逢瀬は、
夕闇迫る黄昏時だった。


「古い日本語で黄昏をカハタレといい、もしくはタソガレドキといっていたのは、ともに「彼(か)は誰(たれ)」「誰(た)ぞ彼(かれ)」の固定した形であって、それもただ単なる言葉の面白味以上に、元は化け物に対する警戒の意を含んでいたように思う」
(柳田国男「妖怪談義」)


たそがれ時は「逢魔時(おうまがとき)」ともいう。
顔の識別がつきにくいこの時間、
異界からさまざま来訪者がある。


時空を隔てた二人の世界が交差するのもこの刻限だった。
やっと会えた相手は夜の来訪とともに姿を消す。
そして名前も忘れる。
あれほど会いたかった相手の名前が出てこない。
「彼は誰」と心の中で繰り返す。
この時間に異界に触れたものの宿命なのだろうか。


⑨異性化された自己愛

君の名は 三葉と瀧の鏡像


「別の自分になりたい」という願望は誰にでもあるだろう。
異性になりたいと思う人もいるだろう。
だが、「自分のなりたい異性」と恋愛の対象が同じであるというのは解せない。
それは自己愛なのではないか。


三葉にとって瀧は来世でなりたい「東京のイケメン」の代表だ。
心が身体に宿ることによって、
瀧を内部から知ることになる。


瀧という身体感覚がまずある。
メールや知人を通じて人となりを知る。
顔は鏡でしか見ることができない。


感覚器官から影響はあるだろうが、
心は三葉のままだ。
だとすると、好きになったのは自分自身、
そして「瀧」という身体感覚と情報だろう。
化粧をした自分を鏡で見てうっとりする人と大差はない。


自己愛を初々しい恋として見せたのも製作者の手腕だ。
「なんだ、ナルシズムか」などと思ってしまうと物語の美しさは損なわれる。
名前を思い出せなかったのは、
自分に二つの名前がないからという解釈も可能だろう。


⑩美しすぎる映像

日本のアニメはここまで来たのかと感動する映像美だった。
作画監督は「千と千尋の神隠し」などを手掛けた安藤雅司氏。


光と影の技法に優れ、自然の描写が美しい。
湖面や木々の輝きは夢のようだ。
自然の精髄のみを濾過したような質感である。
風の表現は、客席で空気の流れを感じられるほどリアルだ。


君の名は 糸守町



最後に

大林監督の「転校生」のラストシーンでは、
「さよなら、あたし」「さよなら、俺」と
かつて入れ替わった男女が別れる。


「君の名は。」のラストは階段で瀧と三葉が再会するシーン。
「あの俺、君の事どこかで」「私も」
「君の名前は」


山上の「彼は誰」時に分かれて以来、探していたけれど、
それが誰であったのか思い出せない。
でも会えた。今、目の前にいる。


新海監督が目指したのは「エンターテインメントのど真ん中」。
泣かしても、最後は安堵の涙に変えるところが心憎い。


矛盾することを含めだらだらと書いてきました。
ここまで、お付き合いいただきありがとうございました。

写真はいずれも
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