リビングで編み物をするのには

猫にいたずらされナイように

ファスナー付きのケースに入れてて

トイレで席を立ったりする時

編みかけを中に仕舞っておくのだけど・・・

 

 

スカートがでかくて入りきらず。(゚д゚lll)ギャボ

 

もう少し大きいケースを

100均に探しに行ったらあった♪

 

 

¥100でなくて¥400だったけどw

 

元のと比べるとでかっ!!

 

 

ウェアとか大判ストールとか

たたみ直さなくても仕舞えて便利かも(*^^*)

 

 

冷蔵庫の上から

こちらの様子を眺めてるはち

 

 

編んでるのは鈴蘭

 

 

スカートを編みあがってから

白の残り糸で編んでみる予定だったが

まだ編みあがっておらず

とりあえずの残り糸で編んでみた^^;

 

これはもちろん

本来は白のレース糸で編むのだけど

自分は毛糸で編んで逆さにして

中に鈴を入れて(鈴蘭なだけにw)

ストラップにしようと目論んでるのだ^^

 

 

スカートが全然編み進んでナイのは

土曜日の晩に呑みに行って

うっかり朝6時まで呑んでしまったのと

上野にハプスブルク展を観に行ってたからだ

 

 

混んでて予想以上に時間を食ってしまったが

実はメインはハプスブルク展ではなくて

常設展の企画展コーナーにあったこっち↓

 

 

ハプスブルク展の混雑ぶりとは打って変わって

こちらは殆ど人がおらず

じっくり鑑賞するコトができて好かったヽ(´▽`)/

 

それにしても今までも何度か

写本の展示を観てきたが

今回は何が驚愕だったかって

その文字の小ささだ!

 

アルファベットだからこそ可能な

至高の緻密芸術!!

 

(写真はサイトからお借りしました)

 

しかし慌てて出かけたので
(酔いも残ってたのかw)

電子機器を一切持っておらず

写真を撮れず。(´д`;)ギャボ

 

まあ写真があったとしても

その微細さはむしろ伝わりづらいかもだが

1行の高さが僅か2mm程のもあって

視力に自身のある自分でも

読むのが精いっぱいで

書くのは至難の業だと思えた・・・ポカーン。(゚д゚;)

 

写本は印刷技術の無かった時代には

唯一の書籍の複製手段だったが

単に元の書物から文字を書き写すだけでなく

装飾過多なページに仕上げたのは

なぜなのか?

 

まず

誰が写本を必要としたかと言えば

ラテン語で書かれてるので

読む(読める)人は限られてて

それは聖職者と貴族だ

 

だから写本作業は

初期には修道院内で行われてたし

後には専門職によったからで

率直に言えば

それだけのヨユーがあったのだが

そのヨユーの内訳は信仰心と虚栄心だろう

 

印刷されるようになってからも

その仕様は受け継がれた

 

西洋博物学者列伝』よりアリストテレスの『動物論』

 

つまりラテン語で書かれた写本を

ローマ・カトリック教会が独占してた時代があり

人類の叡智を古代ギリシアより連綿と継承してて

それが大学創設に繋がるワケだ

 

ところが印刷技術の出現によって

自国語のパンフレットを配れるようになると

ローマ・カトリック教会に対して

異を唱える意見書を頒布可能にもなり

まさしく抗議(ラテン語のprotestatio)の文書が

ルターによって書かれて

それが宗教改革の口火を切ったのだ

 

尤もルター自身は神学者として

ラテン語で書いたのだがね

 

そこまで考えを巡らせてて

カトリックとプロテスタントの違いで

信仰上の何たるかではなく

単にラテン語の写本聖書を使ったのがカトリック

印刷された自国語の聖書を使ってるのがプロテスタント

だったのだと気付いた(-人-;)ナムアーメン

 

そうして先に結論を述べてしまったが

長くなりそうだったので

記事を2つに分けて今回は

プロテスタントとはなんぞや?の続き

(さらにその前の記事は

ローマ・カトリック教会とはなんぞや?

 

以下の年表は前回と同じだが

前記事をいちいち参照するのも面倒くさいので

再掲しておく

 

カノッサの屈辱(1077)
クレルモン公会議(1095)
十字軍遠征(1096~1272)
テンプル騎士団結成(1119)
ドイツ騎士団結成(1198)
アッコンの陥落(1291)
アヴィニョン捕囚(1309~1377)
テンプル騎士団解体(1312)
テンプル騎士団員の火刑(1314)
東ローマ帝国滅亡(1453)
トマス・モア(1478年2月7日@ロンドン)
マルティン・ルター(1483年11月10日生@アイスレーベン)
トマス・モアの『ユートピア』(1516)
95ヵ条の論題(1517)
マルティン・ルターが破門(1521年1月5日)
ヘンリー8世が「信仰の擁護者」の称号を授与(1521年10月)
ドイツ騎士団総長がルター派に改宗(1523)
ヘンリー8世がイングランド国教会設立(1534)
トマス・モア57歳で没(1535年7月6日)
ヘンリー8世が破門(1538)
第1回トリエント公会議(1545~1547)
マルティン・ルター62歳で没(1546年2月18日)
ヘンリー8世45歳で没(1547年1月28日)
イエズス会のフランシスコ・ザビエル来日(1549)
第2回トリエント公会議(1551~1552)
第3回トリエント公会議(1562~1563)


前回の最後に登場した

マルティン・ルターなる人物は
ドイツのザクセン地方アイスレーベン出身の神学者で
宗教改革の創始者であるコトくらいは
誰しも知ってると思われ

魂の救済を約束する免罪符の発行を批判して
発行してた地元ヴィッテンベルク教会に対して
95ヵ条の論題(意見書)を提出したのがコトの始まり
これが1517年のコト

免罪符ってのはそもそも起源は十字軍で
セルジューク・トルコに占領されたイェルサレムへの
聖地奪回目的の従軍の際に
実際に従軍する代わりに
教皇指定寺院(つまりローマ)への参詣と寄進で
従軍した分の苦行を果たした
とする証明書を発行したのが始まり

これが各地に出張所的なノリで広まって
教会の財源確保目的で悪用されるコトになったが
これに対して意見したのがルターだ

免罪符を買っても魂の救済になんかならん!

尤もな意見だと思われ・・・。(´д`;)ギャボ

しかしその意見書が元で大論争に発展
結果はもちろん教皇無謬で
ルターと彼の支持者は

教皇に破門状をもらう破目に!!

そしてその破門状を燃やしたルターは
ドイツ皇帝カール5世に意見書取り消しを強要されるが
教皇からの破門状を燃やすほどのルターが
皇帝の、要するに神学に素人の人間になんて
屈服するワケもなかろう。(゚д゚lll)ギャボ

交渉決裂後にカール5世はルター派禁止令を発したので
ルターの身柄も拘束されて然るべきだったのだが
反皇帝派の諸侯ザクセン公フリードリヒが
ワルトブルクの自分の城にルターを匿い
ここでルターはそれまでラテン語だった聖書の
ドイツ語訳を完成させ
『キリスト者の自由』を執筆

こうして反皇帝派のドイツ諸侯が

ルターの援護に付いたので
彼らの領地において

ルター派は広まっていったのだが
敵対するカール5世は再度

ルター派禁止令を発布
これに対してルター派は

抗議(protestatio)文を提出


これが1529年のコトで

プロテスタントの語源がここにあるワケだ

ちょっと戻って1523年には
スイスでツヴィングリが宗教改革を開始
保守派と戦い戦死したのだが
この後を請けてフランスからジュネーヴにやってきたのが
Calvin(仏語でカルヴァン、英語でカルヴィン)

やっともう一人の主役が出てきた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

カルヴァンが唱えたのは福音主義と予定説で
これらは著書『キリスト教綱要』にまとめられてるが
「魂の救済は信仰によってしか得られナイ」
そんな基本的な考え方がルター派と被ってるるる~

このカルヴァン派が主軸となって
新しく編成された教会組織が
フランスではHuguenot:ユグノー(語源は不明)
イングランドではPuritan:ピューリタン(清教徒)
スコットランドではPresbyterian:プレスビテリアン(長老派)
ネーデルラントではGeussen:ゴイセン(乞食)
などと呼ばれるようになるが

先のルター派も含め
ローマ・カトリック教会とギリシア正教会以外の
宗教改革期に出現したキリスト教の宗派の総称が
プロテスタントなんであるるる~