ただ、いる
おばあちゃんに久しぶりに会いにいった。
いつのまにか、もうすぐ90歳になる。
もうボケているし酸素チューブはつけたままだけれども、何とか元気そうだ。
白髪で、顔がチンパンジーに似てきている。
特に目がきれいで、まっすぐこっちをのぞき込む。
やっぱり僕のことがわからないらしく
「誰や?」
なんて聞いてくる。
帰るときに、
「おばあちゃん、またね」って言ったら
「もう帰るの?またきてや」って言う。
いつものように僕が誰かもわからないのに。
おばあちゃんは僕を創りだした人では唯一の生きている人だ。
だから、会うだけで何か包みこまれるような感じがする。
僕より弱いし、ボケてはいるけれども
僕の一部分であるかのように彼女はただ、いる。
帰り、また泣けてきた。
理由はわからない。
でもこの人が死ねば、何かが変わる。
親しい人が死ぬと、自分の中の「柱」というか「核」みたいなものが
ごっそりと削りとられていく様に感じる。
だから僕の半分はもう僕ではない。
どこか遠いところに行ってしまっている。
僕にとっての創作とは
失ってしまった何かを取り戻す作業なのかもしれない。
離れていて普段会わなくても、
その人がいるというだけで、どこかで生きているだけで、そういった事実だけで
死んでしまった人とは違うなにかがある。
それは絶対的な「生」だ。
死は近くにある。
現代社会では「死」は忌むべきもので
通常の生活からはかけ離れた位置にある。
だけど、死は近くにある。
ただ見ないように避けている。
「死」を身近に感じると「生」がその反動で
むくむくと、くすぶっていた火がもえだすかの様にあらわになる。
「死」のないところには本当の意味での「生」はない。
