点から線、線から面に向かって(六)

 

「ずうずう弁のふるさとでは」(二)

 

 平安時代の口遊に〈雲太、和二、京三〉という言伝がある。出雲が最初に国を治めた。次は奈良が国の中心であったが、今は京都が中心なんだという意味であるとか、出雲大社が一番高い建物で太郎、奈良の大仏殿が二番目で次郎、京都の大極殿が三番目で三郎だということで、国譲りに敬意を示して、出雲大社以上の高い建物は作らないということを物語っているんだ等言われてきました。

 豊葦原中国の支配権を天孫族に国譲りした後の出雲は、以降中央との関係を一切断ち、特別な一地方として閉塞し、今日もなお、しかし独善的な生き方を守り続けて来ました。たしかに弥生時代に一番豊かで繁栄していた地域が出雲であったことはまちがいのない事実です。

 九州北部から伝播して来た倭原語が一番最初に伝わって来たのが出雲であった。そして今日まで、この出雲の地で維持し育まれて来た言葉が、〈ずうずう弁〉と呼ばれる出雲弁であると私は思っているのです。

 瀬戸内ルートで奈良、大阪、京都へと伝播した言葉は、その後の各地域相互交流の中で変化をとげて、岡山、広島、山口、石見等、中国地方の地方弁として形成されていったと思われるのです。ところが、他地域との関係交流を断ち、この出雲だけは、まったく違う独自の言語形態を弥生以来維持しつづけて来ていると考えられるのです。

 〈ずうずう弁〉は今日東北を中心とした北日本一帯の言語形態として知られています。出雲弁も一時期東北弁の一種だろうと誤解された時もありました。松本清張の「砂の器」で出雲弁と東北弁のずうずう弁は同じ類のものと間違われる事件もありました。これはまったくのぬれぎぬであります。

 出雲弁は、弥生時代から連綿と続く日本語の原型を出雲が維持し、生活に活かし使用しつづけて今日に至っている言語形態であるということです。

 誤解を恐れずに申し上げると、かって、私の友人の父親で、八重垣神社の宮司の家系であり、当時松江市の教育長をされていた佐草家のご当主は、典型的な出雲弁を話される方でありました。その父親が昭和天皇陛下が国会で開会の詔書を朗読される際「国会を開会いたします」〈コックァイウォクァイクァイイタシマス〉とお読みになることを幾度もお聞きになり、出雲弁でも、「運動会を開会します」と言う時は、〈ウンドークァイウォ、クァイクァイシマス〉と天皇陛下と同じ様な発音になるんだよと教えて下さったことを思い出します。天皇家も古い伝統と正しい日本語を大切に守られている家系であり、同じく古い日本語を守って来た出雲の言葉が、どこか共通の源泉を持っているのでは、と失礼をかえりみず、今、思っているところです。

 

めだか論語普及会 顧問 小谷 忠延