8月23日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4金曜日 旧暦  7月20日、友引、月齢 18.7  
グレゴリオ暦で年始から236日目、年末まであと130日。
誕生花 オシロイバナ(白粉花)・ゲッカビジン・ボダイジュ。

奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー
(International Day for the Remembrance of the Slave Trade and Its Abolition)。
国際連合教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)が1998(平成10)年に制定した国際デーの1つ。1791(寛政3)年8月22日の夜、大規模な奴隷蜂起が発生し、南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域の洋上にある群島、西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する、フランス植民地のサン=ドマング(現在のハイチ共和国)で、大西洋奴隷貿易廃止の重要なきっかけとなった、ハイチ革命が始まったことを記念する日。国際連合教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)加盟国は毎年同日に、青少年や教育者、芸術家、知識人を招いての催しを開催している。国際連合教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の文化越境プロジェクト、「奴隷の道」プロジェクトの一環として、奴隷制の「史的要因・制度・状況」について学び、注目する機会となっている。その他に、アフリカ・ヨーロッパ・アメリカ州・西インド諸島の間で行なわれた、人間の大西洋貿易を引起こした交渉についての分析と対話を行なう場も設けている。奴隷制とは、一般に人格を否認され、所有の対象として他者に隷属し使役される人間、つまり奴隷が、身分、又は階級として存在する社会制度である。奴隷制は、有史以来遍く(あまねく)存在したが、時代的・地域的にその現われ方は複雑、かつ多様であった。抽象的に言えば、生産力発達が他人の剰余労働搾取を可能とした段階以降の現象であり、始原的には、共同体間に発生する戦争捕虜、被征服民に対する略奪・身分格下げ、共同体内部の階層分化、成員の処罰や売却、債務不払い等が供給源であった。古くから一般に家長権の下に、家族の構成部分として家内労働に使役されたが(家父長制奴隷)、古代ギリシャ、古代ローマ、カルタゴ(現在の北アフリカに位置するチュニジアの首都、チュニス近くにあった古代都市国家)や近世のアメリカ大陸等では、プランテーション(熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、ゴム・煙草・砂糖等の単一作物を大量に栽培する大規模農園)、鉱山業等の生産労働に私的、公的に大規模に使役された(労働奴隷)。奴隷制は、自前の奴隷補給が困難であったため、古来より戦争による奴隷供給と奴隷商業の発達を不可欠とした。プランテーションや鉱山等、一次産品における労働では、労働者が生産物の直接的消費者とならないため、私有財産を持たない奴隷は効率的であった。しかし、二次産品以降の工場労働者は、製品の消費者となり得るため、賃金労働が進められた。国の工業化が進むと、内需拡大策の1つとして、一次産品の労働者についても賃金労働が推進められた。奴隷貿易とは、国際間の奴隷の取引を指す。古代ギリシャや古代ローマの文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行なうようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えた訳ではなかった。古代社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では、明確に異なる点も多い。古代社会では、奴隷が経済的に独立した生活を送ることができたり、市内を移動する自由が認められたりしていた。特定の主人に仕えない自由契約の奴隷は、個人の努力次第で、貴族並みの収入と名声を得ることもあった。中世における世界の奴隷売買の中心地と言えたイスラム世界においては、その奴隷の殆どがゲルマン人、スラヴ人、中央アジア人、及びバルカン人で、黒人は少数であった。奴隷を意味する英語の「Slave」は、スラヴ人に由来する。『奴隷』の代名詞が黒人(いわゆるブラック・アフリカ諸民)になったのは、大西洋奴隷貿易以降の時代のことになる。大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、デンマーク、 スウェーデン、アメリカ州を含むヨーロッパ系植民者が関わり)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀に亘って、アフリカ原住民を対象として展開され、プランテーション経営に必要な労働力となった。アフリカの人々を拉致し、奴隷としてアメリカ州に強制連行して、そのアメリカ州とヨーロッパとが貿易するという、3大陸間の貿易のことは「三角貿易」とも呼ばれる。供給源となったアフリカが、西ヨーロッパ諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴なう奴隷の卸売り価格の上昇、そして、需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見做されなくなり、縮小に向かった。その後、人道的、或いは産業的見地からの反対を受け、1807(文化4)年にイギリスで、奴隷貿易は禁止された。アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行ない、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは、社会構造そのものが破壊されてしまった。初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者等が、自己の利益のために自己負担で行なった私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の植民地化に伴なうインディオ)(中南米の先住民族人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと(貧しい白人入植者が、年季奉公の形で期限付きであっても、奴隷同然の扱いを受けるのは一般的であり、概して海外植民地は不人気であった)、熱帯地域において、伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたこと等で、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では、熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が、労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していくことになった。18世紀になると、イギリス中西部のリヴァプールや、フランス南西部のボルドーから積出された銃器、その他をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらに、こうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖等をヨーロッパに持帰る三角貿易が発展した。また、アフリカでは、綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目を付け、イギリス中西部のマンチェスターで綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが、注目に価する。約3世紀間に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は、1,500万名以上と一般には言われているが、学界では約900万名から約1,100万名という説が有力とされる。