8月6日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1火曜日 旧暦  7月 3日、先負、月齢  1.7 
グレゴリオ暦で年始から219日目、年末まであと147日。
誕生花 トレニア・アサガオ。

広島平和記念日、広島原爆忌。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍の戦略爆撃機ボーイングB29スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」が、広島市上空で世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。熱線と衝撃波によって広島市街は壊滅し、約14万名の死者を出した。その後、原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万名以上に上る。この歴史的悲劇から人類は目を背けることなく、犠牲となった多くの人々の霊を慰め、世界平和を祈る日として、広島市では「平和記念日」とし、この日に原爆慰霊碑の前で平和祈念式典が行なわれる。アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した原子爆弾は、実戦で使われた世界最初の核兵器である。広島県、広島市等を指す「広島」が「ヒロシマ」と片仮名表記される場合は、広島市への原爆投下の関連での言及が多い。広島市は、戦国時代の大名毛利輝元により、太田川河口三角州に城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。さらに、多くの学校を有する学都でもあった。また、広島には、軍都としての側面もあった。1894(明治27)年7月から1895(明治28)年3月にかけて行なわれた、主に朝鮮半島(李氏朝鮮)を巡る日本と清国(中国清朝)の戦争、日清戦争時には、前線に近い広島に大本営(広島大本営)が置かれ、臨時帝国議会(第7回帝国議会)も広島で開かれる等、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。即ち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200mに爆心地がある。また、広島県を流れる太田川(厳密に言えば京橋川)の河口部に位置している宇品港(現在の広島市南区に所在)に置かれた陸軍船舶司令部は、兵站上の重要な拠点であった。被爆当時の市中人口は約35万名と推定されている。爆心地である広島市細工町29-2の島病院(現:島外科内科)は、広島県産業奨励館(当時、現在は原爆ドームの名で知られる広島平和記念碑)の東側にあり、病院南西側の上空約600mで炸裂した。爆心地500m圏内では、閃光と衝撃波が殆ど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。鉄筋コンクリート建築である広島県産業奨励館は、垂直方向の衝撃波を受けて、天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが、完全な破壊は免れている。広島市中心部を流れる本川(旧太田川)と元安川の分岐点に架かる相生橋や、広島市の元安川に架かる元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力で暫く走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいた。その中で、爆心地から僅か700m付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車(広島電鉄650形電車651号車)が、修理・改造され、今も現役で平和学習に用いられる等、残った物もある。広島市の行政機関(市役所・県庁他)は爆心から約1,500m以内であり、家屋は全壊全焼、職員も多くが死傷し、被災直後は組織的な能力を失った。また、広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も機能を喪失した。市内の爆心地から約4kmにあった宇品港の陸軍船舶司令部隊は被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった。爆心地から500m以内での被爆者では、即死、及び即日死の死亡率が約90%を越え、500mから1km以内での被爆者では、即死、及び、即日死の死亡率が約60%から70%に及んだ。さらに、生き残った者も、7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25%が死亡していった。1945(昭和20)年8月6日午前7時過ぎ、「エノラ・ゲイ」に先行して出発していた戦略爆撃機ボーイングB29スーパーフォートレスの機体を利用した気象観測機「ストレートフラッシュ」が広島上空に到達した。7時15分頃、「ストレートフラッシュ」は本格的な日本本土空襲を行なう基地となっていた、太平洋中西部、北マリアナ諸島にあるテニアン島の司令部に気象報告を送信した。この気象報告を、四国沖上空にいた「エノラ・ゲイ」が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。8時9分、「エノラ・ゲイ」は広島市街を目視で確認した。「エノラ・ゲイ」が広島市街を目視確認する直前の8時過ぎ、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府(日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関)に、敵大型機(或いはB-29)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。陸軍中国軍管区司令部(広島市中区基町の広島城内に所在)にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。呉鎮守府飛渡瀬砲台では、155mm高角砲が「エノラ・ゲイ」を有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。しかし、中国軍管区司令部の地下壕にある作戦室の指揮連絡室から、各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとした瞬間、原爆が炸裂した。中国軍管区司令部の地下壕は、半地下式のコンクリート耐爆シェルターであったため、熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって多くの負傷者を出した。それでも、福岡市にある西部軍管区司令部等には、広島空襲の第1報が電話で伝えられた。そんな極一部を除いて、あらゆる通信が途絶した広島は、被害状況報告や救援要請を行なう手段を失った。しかし、広島市郊外にある広島中央放送局原放送所(現在のNHK祇園ラジオ放送所)の主要設備(放送鉄塔を含む)は無事であった。そこから、「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島上空に飛来し、特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。死者およそ17万人の損害を受けた」との第1報が送られた。8時30分頃、呉鎮守府が大本営海軍部に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告した。広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との結論が出された。広島原爆には、約50kgのウラン235が使用されており、この内核分裂を起こしたのは1kg程度と推定されている。広島原爆はウラニウム型原爆であり、計算上得られる一定量以上のウラン235を「寄せ集める」だけで臨界核爆発を起こす。従って、分割したウラン235の塊を合わせるだけの簡単な構造のもので、爆発そのものはほぼ確実であることから、複雑な構造を持つ爆縮型の長崎原爆(プルトニウム型原爆)とは異なり、事前の核実験(爆発実験)による動作の検証はなされず、設計図通りに作られたものが、そのまま広島に投下され、後に広島の被災実態から詳細な計算がなされた。