7月3日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0324年 - アドリアノープルの戦い。後にコンスタンティヌス朝初代ローマ帝国皇帝となったコンスタンティヌス1世(ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス)が、義兄弟に当たるローマ帝国の東側の支配者であるリキニウス(フラウィウス・ガレリウス・ウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス)を打破り、ビュザンティオン(ビザンチウム、現在のトルコ領イスタンブルの旧市街地区の先端部分にあった古代ギリシャ人の建設による都市)へ追込む。
0822年 - 延暦寺(現在の滋賀県大津市坂本本町に所在し、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院)の大乗戒壇(大乗戒[大乗仏教における菩薩僧と大乗の信者に与えられる戒律]を授けるための戒壇[場所])建立が勅許(天皇の許可を得ること)される。大乗仏教は、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派の1つである。自身の成仏を求めるに当たって、まず苦の中にある全ての生き物達(一切衆生)を救いたいという心、つまり、大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。804年、後に天台宗の開祖となる最澄は、後に真言宗の開祖となる空海と共に、遣唐使(中国文化の輸入を目的とし、朝廷が中国唐朝に派遣した公式の使節)として入唐する。現在の中国東部、浙江省にある中国三大霊山の1つ、天台山(仏教の重要な経典の1つ、法華経を根本経典とした中国天台宗の開祖、智顗ゆかりの地として、古くから仏教信仰を集めている)に登り、天台教学を学ぶ。さらに、中国唐朝の翛然禅師より禅を学び、中国唐朝の密教(秘密に説かれた深遠な教え)の僧、順暁から灌頂(種々の戒律や資格を授け、正統な継承者とするための儀式)を授けられている。最澄は、805年に日本へ戻り、天台宗を開くが、最澄の学問の特色は、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想を共に学び、日本に伝えた(四宗相承)こととされる。渡唐に先立つ788年、現在の滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山に、小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けていた最澄は、比叡山に大乗戒壇を設立することを念願とする。大乗戒壇を設立するとは、即ち、奈良の旧仏教から完全に独立して、比叡山の寺院において、独自に僧を養成することができるようにしよう、ということである。最澄の説く天台の思想は、奈良の旧仏教の思想とは相容れず、非常に激しい反発を受ける。大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺(開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の823年のことであった)は、日本仏教の中心的地位に就くこととなり、延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなっている。最澄は866年、第56代天皇、清和天皇より伝教大師の諡号(死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名)を贈られる。日本で初めての大師号(高徳な僧に朝廷から勅賜[天皇から頂くもの]の形で贈られる尊称)で、以後、「伝教大師最澄」と称される。「延暦寺」とは、単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)等の区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する、約150の堂塔の総称である。新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが、若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は、文学作品にも数多く登場し、1994年には、古都京都の文化財の1つとして、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。また、「12年籠山行」「千日回峯行」等の厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。延暦寺の武力は年を追う毎に強まり、幼帝を後見するために自ら政務を執り、強大な権力で院政を行なった白河法皇(第72代天皇、白河天皇が譲位・出家して引続き政務に当たっていた時[院政]の称号)ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と語っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは、延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないもの、と例えられた訳である。延暦寺は、自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵達が神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通している。また、祇園社(現在の京都市東山区祇園町北側にある八坂神社)は、当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により、延暦寺がその末寺とする。1070年には、祇園社は鴨川の西岸となる広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認されている。延暦寺は、その権威に伴なう武力があり、また、物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる、一種の独立国のような状態(近年は、その状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であり、延暦寺の僧兵の力は、奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられる。延暦寺の勢力は、貴族に取って代わる力を付けた武家政権をも脅かしたが、戦国末期、織田信長が京都周辺を制圧した際、反織田信長の行動を起こした延暦寺は、織田信長から武装解除するよう、再三通達を受ける。その通達を断固拒否された織田信長は1571年、強大な武力と権力を持つ延暦寺の4,000とも言われる僧兵による仏教政治腐敗から、戦国統一の障害になるとみて、延暦寺を取囲んで焼討ちする。これにより、延暦寺の堂塔は悉く炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害される。織田信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって、延暦寺各僧坊は再建され、現在に至っている。
0987年 - 現在のベルギー中東部に発する豪族で、フランク王国(5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国で、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア、及びスロベニアを領土としていた)2番目の王朝、カロリング朝の姻戚関係にあったロベール家出身のパリ伯ユーグ・カペーが、中世フランス王国の王朝、カペー朝フランス王国の国王に即位する。フランス王国は、成立当初は権力基盤が非常に弱く、パリ周辺を抑えるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させ、イングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立つ。1328年まで14代の王が続き、また、後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝に至るまで、フランスの歴代の王朝は皆、ユーグ・カペー一族の分族から出ている。
1500年 - 1467年からの約10年間に亘って継続した内乱で、有力守護大名が争い、九州等一部の地方を除く全国に拡大した応仁の乱により、中断していた祇園会(祇園社[八坂神社の旧称]の祭礼)の山鉾巡行(災厄をもたらす疫神を鎮めるために、町中を練り歩いたことが始まりと言われるもので、「山」や「鉾」と呼ばれる山車が京都の中心街を巡る行事)が33年振りに復活する。数々の三大祭の1つに挙げられる京都祇園祭は、八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(御霊会)と呼ばれている。貞観年間(9世紀)より続く、京都の夏の風物詩で、7月1日から7月31日までの1ヶ月間に亘って行なわれる長い祭である。そのハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により、前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。「宵山」(前夜祭の意で、前祭は7月14日から7月16日、後祭では7月21日から7月23日)やその前日の「宵々山」等には、旧家や老舗で、伝来の屏風等の宝物の披露も行なわれるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行では、さまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。