6月1日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

景観の日。
「景観法(平成16年6月18日法律第110号)」の基本理念の普及、良好な景観形成に関する国民の意識啓発を目的とする日。2006(平成18)年4月27日、「景観法」を所管する国土交通省、農林水産省、環境省において制定された。これは、「景観法」が全面施行された、2005(平成17)年6月1日を記念したものである。日本では、1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間の時期である高度経済成長期以降、全国どこへ行っても地域全体の調和・美観・伝統を軽視した住宅やビル、工場、護岸等の建築物・構造物が次々に建てられ、街並みや自然景観から、調和や地域毎の特色が失われていった。良好な景観や環境を求めるよりも、経済性が優先され、建築基準法や都市計画に違反しない限り、どのような形態の建築物でも建てることができる「建築自由の国」と揶揄される状況になっていた。その結果、長い年月を掛けて形成された伝統と風格と調和のある街並みが、都市を含む各地に残っているヨーロッパ等諸外国と比べて、無秩序でみすぼらしいと言われるような、今日の状況に至った。一方で、各地で高層マンションの建設等をきっかけにしたトラブルや屋外広告の氾濫等によって、景観の価値に対する意識が次第に高まっていった。一部の地方自治体では、地域住民の要望に応え、景観条例を定めていた(「景観法」制定前に約500団体)が、法令の委任に基づかない自主条例のために強制力がなく、建築確認の際に必ずしも従う必要はなかった。1990年代頃から、ようやく国土交通省も自らが発注する公共工事において、景観に対する配慮・調和を重視するようになり、「景観法」が2004(平成16)年6月に公布された。2005(平成17)年6月1日には「景観法」が全面施行され、景観行政団体である地方自治体が定める景観条例(法委任条例)は、「景観法」を背景に、景観問題に対して大きな役割を果たすことも可能になった。「景観法」自体が直接に景観を規制する訳ではなく、地方自治体の景観に関する計画や条例、それに基づいて地域住民が締結する景観協定に、実効性・法的強制力をもたせようとするものである。
マリリン・モンローの日。
1926(大正15)年6月1日、アメリカ合衆国の女優、マリリン・モンローが、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれたことを記念して、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州ロサンゼルス市と、ロサンゼルス市にあるハリウッド商工会議所が1992(平成4)年に制定。「頭の悪い金髪女性」役を演じたことで有名な、20世紀を代表するセックスシンボル(性的魅力があり、性的魅力によって人気を得る人物)として広く認知されているマリリン・モンローのトレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方とされる。1951(昭和26)年に本格デビューしてから、962(昭和37)年に予期せぬ死を迎えるまで、僅か10年程の「花形役者」であったが、マリリン・モンローの映画は莫大な収入を得た。マリリン・モンローは、今もなお、大衆文化(一般大衆が広く愛好する文化)のアイコン(分かり易いシンボル)と見做されている。マリリン・モンローは、ノルウェー人の血を引いていると言われるが、本当の髪の色は、ブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。本名はノーマ・ジーン・モーテンソンで、「モンロー」というステージネームは、マリリン・モンローの母親の姓で、「マリリン」の名は、1920年代のブロードウェイ(アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタンを南北に走る目抜き通りで、「ミュージカル」の代名詞ともなっている)の美貌の舞台女優、マリリン・ミラーに由来している。マリリン・モンローは、1954(昭和29)年1月14日、かつてメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)のニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手であったジョー・ディマジオと結婚したが、その後の2月1日、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れ、東京国際空港(羽田空港)で大歓迎を受けた。そして夫妻は、3週間日本に滞在している。この新婚旅行中、マリリン・モンローには、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、国境線と化していた38度線(第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれた、アメリカ軍とソビエト連邦軍の分割占領ライン)を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争、朝鮮戦争で、韓国に駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞込む。行くなと反対するジョー・ディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かったマリリン・モンローは、ヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗継いで駐屯地を回り、多くの兵士達を前にして歌った。僅か約9ヶ月後、マリリン・モンローは、関係が悪化していたジョー・ディマジオと離婚することとなる。  
TUBEの日(TUBE DAY)。
太平洋中央部の洋上に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州、ハワイ州が2000(平成12)年に制定。ロックバンド『TUBE』が、デビュー15周年を迎えるこの日(2000[平成12]年6月1日)に、ハワイ州の政治・経済・観光の中心となっており、人口もハワイ州では最大の島、オアフ島のホノルルに所在する球技場「アロハ・スタジアム」で、日本人アーティストとして初めて、コンサートを行なったことを記念して制定された。『TUBE』は、1985(昭和60)年6月1日にデビューしたロックバンドで、一般的には、幅広い世代に支持されているポップスバンド『サザンオールスターズ』や、主に1980年代に活躍したバンドで、夏・海・リゾートをテーマとした作品の数々をリリースした『オメガトライブ』と並んで、「夏バンド」のイメージが強いが、デビュー当時は、1980年代から1990年代前半にかけて活動したポップスバンド『チェッカーズ』等のアイドルバンドに対抗してデビューしている。バンド名は、サーフィン用語の「チューブライディング」に由来する。アマチュア時代は、『パイプライン』というバンド名で活動し、デビューした1985(昭和60)年はバンド名を『The TUBE』としていたが、北海道文化放送の「Sound club 1700」(当時土曜17時台に放送されていた音楽番組)に出演した際、姓名判断師(木村天山)に「画数が悪い、名前の"The"を取ればバンドは良い方向へ向かう」と言われ、翌1986(昭和61)年、3rdシングル「シーズン・イン・ザ・サン」発売前に、正式に『TUBE』と改名した。シングル1枚、アルバム8枚がミリオンセラーとなり、また、1990(平成2)年から2004(平成16)年までシングル連続TOP10入り(15年、歴代2位)の記録を持つ。アルバム計約2,100万枚、シングルを含めると計約4,000万枚を超えるセールスを記録しており、アルバムの総セールスは、歴代アーティストの中でも20番目に多い。結成地は神奈川県座間市であり、メンバーの出身地は神奈川県央地区と東京都下である。1990年代は、夏のみの活動が殆どで、冬季のリリースは少なくなり、夏以外はソロ活動が目立つようになる。デビュー当初の1980年代も、1年通して活動していたが、夏バンドのイメージが強くなり過ぎた為、夏に特化していくようになった。近年は、夏だけでなく秋冬にもシングルをリリース、また、冬季限定ライブ「冬でごめんねツアー」を行なったりしている。