人体の細胞は約37兆個あるといわれていますが、それらは部位によって異なったサイクルで死と生を繰り返しています。

 

たとえば赤血球は約120日、胃腸内壁の細胞は数日、肌表面は約28日、骨は約5カ月、筋肉は約200日等の寿命で入れ替わります。脳は以前は一生もので新生しないといわれてましたが最近では新生することが分かっています。

 

このように、個々の細胞は部位と働きにより様々な寿命で死と生を繰り返して全身の生命を維持しているのですが、そのすべてが元来は受精卵という1個の細胞から発しています。1個の受精卵が分裂して数が増えて全体として大きくなり、1人の人間の全身となって人生を全うするのですが、受精卵と分裂した多数の細胞と全身との関係は「部分即全体」で相似象です。スイッチONの遺伝子の違いによって部位と働きは異なりますが、基本的な遺伝子はすべて同一です。

 

全身が私だとすると、受精卵もそこから派生した多数の様々な細胞もすべて私です。受精卵の寿命は大きくなった全身の私の寿命でもありますが、派生した多数の細胞の様々な寿命も長短含めて私の寿命なのです。

 

私は現在74歳ですが、これは私が受精卵だった頃からの年齢で受精卵の年齢でもあります。これまで私の体内では例えば赤血球は120日、胃腸内壁の細胞は数日、肌表面の細胞は28日くらいの寿命でそれぞれ死生を繰り返しながら74年間生きてきたのですが、それらはすべて私自身の寿命でもあるのです。

 

では、私の死生そして寿命とは一体どのように考えればよいのでしょうか。例えば、赤血球の寿命は約120日ですが、赤血球全体としての寿命はずっと続いてきて現在74歳です。胃腸内壁細胞の寿命は数日ですが、胃腸内壁全体としてはずっと生き続けてきて現在74歳なのです。ということは、私は個別の細胞レベルでは死があり生があるのですが、長いスパンでみれば短期的な死はないに等しいといえるのです。つまり、マクロの観点からはミクロの死生はないに等しいということが言えるのではないでしょうか。死生というより新陳代謝(新しいもの[新]と古いもの[陳]の交代)なのです。

 

これをドーンと拡大して、マクロは宇宙規模のグレートウォール、ミクロは素粒子・量子レベルといった視野で観ると、部分即全体つまり相似象の観点からは、図1のノーベル物理学賞学者グラショーの解釈による古代のウロボロスの蛇で示されるように、ミクロからマクロまでのすべてが相似象の私であるということになると思います。当院の考え方からするとすべてが「中心帰一の回転コマ運動をする円・生命」なのです。すると、宇宙を仮に無限絶対無始無終の存在とすると、我(部分)即宇宙(全体)となり、昔から言われてきた「人間は小宇宙」であり、常識的な死生を飛び越えた不死なる自分があるということになると考えます。

 

図1 ウロボロスの蛇(グラショーによる)

 

さらに、その認識を深める発生学的な事実があります。図2は人の胎生16日の原腸発生図ですが、腸の元である原腸は胎児の表面部の内部嵌入で形成されます。そして図3は胎生28日過ぎに原腸からさらに内部嵌入がおきて諸種内臓が形成されることを示しています。

 

図2 胎生16日の原腸発生図          

「ラングマン人体発生学第8版」     

 

図3 胎生28日を過ぎた頃の胎児

「ラングマン人体発生学第8版」

 

すると、私たちの内部は外部でもあることになるのです。人間には9か所の内部嵌入口があります。目と耳と鼻が各2か所、口と尿道口と肛門が各1か所で合計9か所です。私見ですが、7番目の口の奥には胃があるので皮膚の膚の字の中に「七と胃」があり、9番目の尻の中に「九」があるのかも知れません。要するに私たちの体の内部は外部でもあるということです。このことが書かれているのが、永田和宏著「生命の内と外, -ヒトは「膜」 である-」 新潮選書2017です。私の内部が外部でもあるということは、私とは私の外に広がる宇宙でもあることになるのです。

 

ということは、私たち誰もの命は宇宙そのものであり永遠だともいえるのです。因みに、この本は「名ありて形なし」、「身体の上下内外をつなぐ油膜」と言われてこれまで謎の腑であった三焦(さんしょう)の謎解きに役立った書でもありました。

 

さらにもう一つ付け加えると、アメリカの精神的独立の父R.W.エマーソンと聖アウグスティヌスの言葉です。エマーソンは「自然界は円という根源的な図形が果てしなく繰り返される。聖アウグスティヌスは、神の本質とは至る所に中心があり、どこにも円周がない円であると言っている」と述べています。

 

「どこにも中心がある」という言葉は分かりにくいかもしれませんが、「天動説と地動説はどちらも正しい」という見解(松浦壮 慶大教授著『宇宙を動かす力は何かー日常から観る物理の話ー』 新潮新書2015年)からも言えることであり、実際、私たちが地球上のどこにいようとも自分の外部の世界・宇宙を観ると、私たち自身が中心に宇宙が回っていると実感できると思います。

 

これらを総合すると、「誰もが我即宇宙そして自他内外一如で天上天下唯我独尊」ということが言えてくると思います。天上天下唯我独尊は釈迦が生まれて7歩歩いて発した言葉とされていますが、7歩というのは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天上の六道輪廻の迷いの世界から抜け出たという数字です。迷いから抜け出せば、私たちの幸せは天上天下の幸せであり、天上天下つまり全体の幸せを願って生きることが即ち私たち個々の幸せにつながるんだということが分かってくるはずです。と同時に、小さな自我の寿命は見かけだけであって、大いなる真我の寿命は永遠であることが必然的に分かってくるのです。

 

このような地上に生きる小さな三次元的自我と天つまり宇宙レベルの大いなる高次元の真我を結び付けるのが巫であり、これを土台にした医療が療であり、円の回転の意味を加えた円通毉療なのです。そしてその円通毉療における死生観を述べたのが今回のブログです。