トクホンは昔からよく知られる消炎鎮痛貼付剤の名前で、

明治34年創業の株式会社トクホンの製品です。

このトクホンの名、実は永田徳本という

室町後期から江戸初期にかけて118歳の生涯を全うし、

聖と呼ばれた名医の名に由来します。


徳本は、武田信虎・信玄父子の侍医でしたが、

武田家滅亡後は東海・関東諸国を牛の背中に横になって巡り、

どんな治療でも十六文(今の三百円弱程度?)

貧しい人には無料で治療を施したそうです。


徳川二代将軍秀忠の病も治癒させたそうですが、

その時も報酬を受け取らずに立ち去ったと言います。

そんなところから、「甲斐(かい: 現在の山梨県地方)の徳本」、

「十六文先生」等と呼ばれたそうです。


徳本には、興味深い逸話が残っています。

ある日、葬式をしている家を通りかかった徳本は、

「今この家に亡くなる者はいないはず。

亡くなったのは娘さんと言うが、

今一度お棺を開けてごらん、娘さんは生きているはずだから」

と棺を開けて脈を診るとやはり娘は生きていたと言います。


また、頼まれてある病人を診るのですが、

一目見ただけで徳本がいきなり泣き出した。

家族がその理由を尋ねるのですが、

「今は言えない」と言って逃げるように去った。

しばらくして病人が亡くなったので、

家族は「徳本先生はすでに病人が助からないことを

分かっておられたから、あのようにして去られたのだ」

と了解すると共に感心したと言います。


また、将軍秀忠が重病で御典医達の手に負えず

困り果てていたところ、

徳本に白羽の矢が立って秀忠を診ることになったのですが、

一診するや峻剤を処方し忽ちにして病が癒えたそうです。

そして、徳本が将軍を診る前、

御典医達がある患者についても診て欲しいと言って、

奥の間から実は猫の足に絹糸を巻いで

その先を徳本に渡しました。

糸脈と言って、貴人の脈は

絹糸を介して診るとされていたからです。

糸を握った徳本は「このお方には鰹節を食べさせれば良い」

と言って席を立ったと言います。

御典医達の意地悪を見破ったのです。

この糸脈を行った紀元前5世紀頃の中国の名医・

扁鵲(へんじゃく)に因んで、

徳本は「甲斐の扁鵲」とも呼ばれます。


号は知足斎ですが、これは竜安寺の蹲(つくばい)に書かれている

「吾唯足るを知る=吾唯知足」に関連する

謂わば仏教的禪的な号と言えます。


医者になる前に仏教や修験道

(古神道と密教が習合したもの)を修行のあと、

やはり医聖と呼ばれた田代三喜から

道・儒・仏三教を融合した朱子学をベースとした

李朱医学(李東垣[りとうえん]

朱丹渓[しゅたんけい]による医学)を学んでいます。


田代三喜は若い頃に臨済宗の僧となり、

易学を含む儒学を足利学校で学び、

明に渡って朱子学をベースとした

李朱医学を学んで日本に持ち帰り、

漢方の後世方派(ごせいほうは)漢方の開祖となっています。


と言うことは、徳本は古神道・密教や禪を含めた

仏教・道教・儒教等を修めたうえで

医者をしていたことになります。


ついでながら、田代三喜・永田徳本と共に医聖・

日本医学中興の祖と並び称され、

田代三喜の後継者である曲直瀬道三も

相国寺や足利学校で学んでいます。


つまり、日本の漢方を真に理解・把握しようとすれば、

三人の思想的背景であり生き方の背景である宗教

(宇宙[ウ冠]を示す教え)的思想的側面への理解は

やはり大変重要なことであると考えます。


ところが、宗教的思想的側面への理解と言うのが、

これがまたなかなか難しいと言えば難しい。


本当は、例えば宗教とは「宇宙(ウ冠)を示す教え」であり、

自我と真我を「再び(re)結びつける(ligion)もの

=宗教(religion)」であるとか、

自我と真我との「差を取る」のが「差取り=悟り」であるとか、

いろいろな錯覚「昔の金(=)を覚えている」や

妄想「亡き女を想う」から解(ほど)

(だっ)するのが解脱(げだつ)であり、

「解(ほど)け」が「ほとけ=佛」であり、

(三水= )が「沸」騰したら変身して湯になるように

(人偏= )が修行によって変身したら「佛」になれる、

と言うように素朴に理解してゆけば、

教え即ち教(きょう)そのものは

本当は意外に分かりやすいものでもあるのです。


あとは、言霊(ことだま)や音霊(おとだま)

形霊(かただま)、身口意(しんくい)

三業(さんごう)や三密(さんみつ)が、

実際に時空を超えて働くことを体験・体感し活用することです。

これが法(ほう)であり、先の教と併せて

「教法(きょうほう)」と言うのですが、

教法を学ぶことが大切であると言うことです。


このような形で、宗教を医療との関連で解説したのが

拙著『生命毉療は円の毉療』、

『究極の医療は円通毉療』の二冊です。

宗教はアヘン(阿片)であり迷信であるとか、

科学的であることが何よりも大切である、

と言った考え方が主流であった

戦後教育とその土台の上に構築されてきた

医学教育を学んで医者になった私達にとって、

宗教的思想的側面については馴染み難く、

かと言って一般の宗教家や哲学者が書いた本を

読んだからと言ってわかるものでもないので

自分なりにまとめてみたのです。


これまでは、古典的な医学を理解するのに

実は最重要な一面でもある宗教的思想的側面の一点が壁となり、

真の漢方・東洋医学が日本においても中国においても

一部を除いて理解されてこなかったと考えます。


例えば、永田徳本に関してもほとんど研究がなされていません。

上記の壁のために研究が出来ないのだろうと思われます。


調べた範囲では、一つは『日本医史学雑誌』第51巻第2(2005)

「医聖永田徳本ーその医術の位置づけと

P.A.パラケルススとの対比を中心として」と言う

名古屋病院と名大の先生方の論文があります。

徳本の仙術とパラケルススの錬金術を対比させ、

それらが共に後の薬物学の基礎となったと述べられていますが、

仙術や錬金術そのものについては

説明の仕様がないためか記述がありません。


個人的には、前回のブログでご紹介したように

一般常識からすれば不思議な方々にお出会いしている身としては、

徳本の逸話はあり得る話だと思えるし、

実際若い頃にお会いした伝説の鍼灸師である

藤本和風先生にも徳本に似た逸話があるので

比較的自然に素朴に納得できるものです。


もう一つ興味深い書籍として、

小松帯刀(こまつたてわき)著の

『毉聖永田徳本傳』(1899年刊)があります。

小松帯刀と言えば、西郷隆盛や大久保利通・岩倉具視等と

並んで維新十傑の一人とされた

小松帯刀(1835年~1870)と同名ですが、

年代的には別人のようです。

同名の子孫がいるのでその子孫かも知れません。


この書物、医の字の代わりに

毉や醫の字が使われている(写真)ところからして

興味深いものがあります。


当時の東京府・京都府・大阪府ほか

四十懸の醫師會憂国同士六千余名、諸醫科大学学長等々、

明治初期の大勢の醫師の賛同のもと、

小松帯刀が編集主幹・著者として永田徳本を顕彰しています。

おそらく当時は、徳本の名を知らない医師は

きわめて少なかったのではないかと思われます。


現在では漢方の専門家でさえ

永田徳本を知らない人の方が多いのですが、

改めて徳本を再認識し研究することには

大きな今日的意義があるのではないかと思います。