法華三部経関連では、

やはり白隠さんの「坐禪和讃」も

大変ありがたく素晴らしいものです。
坐禪和讃は白隠さん晩年の作ですが、

七五調の四句、十一頌(じゅ: 偈:仏教の真理を

詩の形で述べたもの)から成り、

臨済宗が中心ですが宗派を超えて読誦されています。


坐禪和讃は白隠さんによる法華経の小解説書、

コンパクトな仏教概論とする観方もあります。
また、面白いことに、

「長者の家のとなりて 貧里に迷ふに異ならず」のところは、

法華経・信解品(しんげぼん)の

「長者窮子の喩え(ちょうじゃぐうじのたとえ)」に

由来すると思われますが、

これは同時に新約聖書ルカの福音書の

「放蕩息子の喩え」とそっくりです。
法華経でも聖書でも、

神や仏を親とし地上三次元の人間を

子と位置付けるところは同じです。
洋の東西を問わず、

親の愛は神や仏の愛に通じることを

教えているのだと思います。


では、坐禪和讃です。



衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外(ほか)に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
喩(たと)えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそへて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍(まかえん)の禪定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其の品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いはんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謳ふも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月冴えん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 此の身即ち仏なり

註 1
●六趣輪廻(ろくしゅりんね) : 六道輪廻のこと。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、

天上の六道の中で生まれ変わること。衆生の苦のサイクル。
●摩訶衍(まかえん): 大乗、大きな乗り物、自利利他の教え。
●悪趣(あくしゅ): 地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界。
●自性(じしょう):本体、本性、真我、たましいの自分、主人公。
●無相(むしょう): 何もない空、ゼロ、霊。
●無相の相(むそうのそう): 相(すがた)のない相(すがた)。
●無念の念(むねんのねん): 無極(○)ないし太極(一)の念。正念。
●三昧無碍(さんまいむげ): 正念になりきって

心に引っかかりがない状態。
●四智円明(しちえんみょう): 大円鏡智、平等性智、妙観察智、

成所作智が四智を具えて明るく円通している様。
●寂滅現前(じゃくめつげんぜん): 寂滅は涅槃のこと。

迷いの雲が消滅して生命が輝き出ている悟りの境涯が現前すること。
●蓮華国(れんげこく): 極楽浄土

註 2
白隠さん42歳の時、改めて法華経を読んでいたのですが、

譬喩品第三(ひゆぼんだいさん: 第三章譬喩品)まで読んでいた時、

たまたまコオロギの声を聴いたことをきっかけに法華経の真髄を悟り、

そのありがたさに号泣したと言われています。
白隠さんは臨済宗中興の祖とされますが、

臨済宗では法華経の普門品第二十五

(ふもんぼんだいにじゅうご: 第二十五章普門品)

即ち通称「観音経」の特にその後半部の

偈品(げぼん: 偈の章)が常用されています。
白隠さんの法華経の悟りは、

それまでの法華経に対する深い探求が土台になっているはずで、

それが証拠に白隠さんによる朱筆混じりの書き込み満載の

天台法華経注釈書が残っています。

註 3
後世の私達は、臨済宗の白隠さんや開祖の栄西さん、

曹洞宗の道元さんは禪宗で禪の教えと修行、

日蓮宗の日蓮さんは法華経でお題目、

浄土宗の法然さんや浄土真宗の親鸞さんは

浄土三部経でお念仏等々と、

分けて別々に考えがちですが、

「元はみな一つ」と私は受け取っています。


臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗等々、

いわゆる鎌倉仏教の開祖さん達は

皆さん仏教の総合大学とも言える比叡山は天台宗で学び、

密教や神道を含めて多角的総合的に仏教を学んでおられ、

それに続くお弟子さん達も基本的には同じなのです。


鎌倉仏教は平安時代の真言宗と天台宗に由来し、

両宗は飛鳥時代の聖徳太子の仏教に由来し、

その先はお釈迦さんに行き着きます。
八葉蓮華を上向きにした高野山と下向きにした比叡山は、

丁度陰陽相補の関係にあります。

密教の真髄は空海さんが持ち帰り、

密教を含めた仏教を広く大衆に流布したのは最澄さんです。


また、飛鳥・平安時代以降は神仏習合が当たり前の時代でもあります。
白隠さんの書では、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も

天照大御神その他もありで、

今の時代のような狭い宗派の概念は見出すことはできません。


面白いのは南無地獄大菩薩です。

この世の地獄を観たことが白隠さんが出家された機縁となって

後の悟りにつながったわけで、

白隠さんにとって地獄は帰依すべき菩薩でもあるのです。


宗派と言うのは、時代や地域・社会状況等の違いの中でこそ

理解されるべきもので、

その理解なしにこっちが正しいとか

あっちは間違いだとかの批判はできないのです。
この辺りの理解がないと、

宗派間争い宗教間争いになりかねません。

各論的理解と同時に俯瞰的理解も大切だと言うことです。


なお、上記の法華経の注釈書や南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・

天照大御神・南無地獄大菩薩等の書は

2004年に京都文化博物館で開催された

白隠禪師生誕320年「白隠 禅と書画」展で

発刊された書籍に掲載されています。