字源・語源の面白さ3

テーマ:

ーEmotion(感情)とは?、なぜ伝教大師&弘法大師?、なぜトクホン?等々―




半世紀弱前の学生時代は学生運動華やかなりし時代で、

高学年の運動家のアジテ―ション演説等を聴くと、

よくそんなに難しい用語を上手に使いこなして

喋れるものだと感心したものでした。 


◯◯派の演説も△△派の演説も□□派の演説も、

主義主張は異なるのですが一応それなりに論理的で、

ノンポリ(nonpolitical)の小生には

それぞれがもっともなように思えました。 


でも、基本的には制度を変えよう

世の中を変えようとするよりも、

自分が先ず変わることの方が

より本質的で大切だと思っていたので、

学生運動には自分が参加するほどには

興味を覚えませんでした。 


代わりに、師匠の影響が大きかったのですが、

自分を変えるべく仏教をはじめとする

さまざまな宗教や哲学のほか、

S.フロイトやC.ユング、E.フロムほかの

深層心理学・精神分析学の学習等に

のめり込んでゆきました。 


アメリカの精神的独立の父とされ、

コンコルドの哲人と呼ばれたR.エマーソンからも

大きな影響を受けました。

C.ブリストルの「信念の魔術」や

A.カーネギー(ニューヨークのカーネギーホールで有名)あ

るいはナポレオン・ヒル等、

アメリカの“想いは叶う系・成功哲学系”の書物も読みましたが、

エマーソンがそのエッセイの一つ

「代償Compensation」などで説く因果の法則とその償い、

仏教的に言えば因縁の法則と罪障消滅に関する部分が欠落しており、

まもなく興味が失せました。 


当時から、精神世界の書籍をたくさん出していた

代表的な出版社の一つが日本教文社であり、

それが生長の家の出版社でもあったので、

生長の家総裁の谷口雅春さんの「生命の実相」をはじめとする

膨大な書物にも嵌(はま)っていました。 


エマーソンの書籍も日本教文社刊だったと思いますが、

谷口雅春さんも自著でよくエマーソンの言葉を引用されていました。 


東洋思想に造詣が深かったエマーソンの“円Circulation”や

“自己信頼Selfrelience”等のエッセイは、

禪の円相や白隠さんが説かれたものと共に、

今日の“円の毉療”確立の素地になりました。

何かの折によく引用する、聖アウグスティヌスの

“神とはどこにも中心がある円周のない円である”というフレーズも、

エマーソンの「円」に書かれていたものです。 


エマーソンの円や禪の円相といった素地のうえに、

八年前の大山・大神山神社参拝の折に宮司さん

(偶然にも小生の産土神[うぶすな]さんの宮司さんの身内の方)と

「宇宙は回っている」旨のお話をしている時に

“円の毉療”の構想が思い浮かび、

その後、カゴメ歌の謎解きとも合わさって

拙著「生命医毉療は円の毉療ーカゴメ歌の謎解きと医療哲学ー」

をまとめることになったのです。 


また、雅春氏の娘婿・谷口清超氏訳のJ.クレンショーの

「天と地を結ぶ電話Telephone between Worlds」の

“天と地を結ぶ”という言葉が、

医療というのは天と地を結ぶ意味を内包する

巫を土台とする毉療であるべきだと考えるきっかけになりました。 


前置きが長くなりましたが、大雑把に言えば、

学生運動の世界は論理・理屈が主体で外面世界を認識し、

それをどう変革していくのかを論じていたのに対し、

精神世界探求の場合は感性を主体にして、

外面世界の源である心とか魂や霊の何たるかを知ったうえで

如何にそれを自己管理するかを学び修得するものだったと言えます。 


ところが、論理・理屈の世界もよく考えると、

論理・理屈の前に実は感情の世界があることに氣づきました。

思い込みと言ってもよいのですが、

思い込みも観念とか信念つまり念(今の心)に発するものなので、

先ず感情あるいは信念・観念といった心ありきで、

論理・理屈は後からついてくるのです。 


学生運動が諸派によって論理・理屈が違い、

そのために争いが起きたりするのですが、

それは初発の心・念が違うからだと思いました。 


そう言えば、この間のPC遠隔操作事件は記憶に新しいですが、

そもそも裁判というのは、検察側は有罪ありきで論陣を張り、

弁護側は無罪ありきで論陣を張ります。

それが検察官や弁護士の仕事なのでしょうが、

これなども論理が後からついてくる例だと思います。


素人目には、本当は立場に拘わらず

真実を追及することが最重要なことだと思うのですが、

客観的な論証よりも立場上有罪にしよう、

あるいは無罪にしようという思いが優先して

論陣が張られるというのが裁判というもののようです。  


そこに無理が生じて冤罪が発生したりするのでしょうが、

逆に、兎にも角にも冤罪があってはならないと張り切り過ぎると、

この度のPC遠隔操作事件のような形にもなりうるのだと思います。 


そういう意味では宗教や哲学のような精神世界でも、

ある程度は必要と言える論理・理屈の世界を超えない限り、

言葉やその背後の感情・思い込み・信念・観念、

つまり初発の心・念の違いによってやはり争いが起きます。

宗教なら宗教紛争が起きるし、哲学なら論争が起きるのです。


要するに、学生運動にしても裁判にしても精神世界にしても、

さらには一般的な日常万般においても、

行動を起こすのは感情であり心・念だと思われます。 


それ故に、感情は英語ではe(させる)motion(行動)、

つまり行動させるもの、という単語になるのだと思われます。

日本語では感は感じることで、情は字解すると青い心です。

青いというのは、りんごもみかんも元は青いように、

大人も元は青二才で青春時代があるように、

心の元が青い心つまり情であると考えられるのです。 

赤い心を赤心あるいは赤誠と言うように、

青い心が情と考えてもよいと思います。 


Emotionあるいは感情は、表層の顕在意識だけではなくて

深層の潜在意識をも含む深くて複雑な心です。

潜在意識のうち、ドロドロした情念の世界を突き抜けると

宇宙意識(神意識)に至りますが、

これは「心の欲する処に従って矩(のり)を越えず」とか、

仏様が微かに微笑むような心ですが、

このレベルからの高次元の感情もあると思います。 


仏教では阿頼耶(アラヤ)識が設定されています。

アラヤは住処(すみか)・蔵の意で、

沢山の意識が詰まっている処です。

雪(ヒマ)が詰まっている処がヒマ・アラヤつまりヒマラヤですが、

一杯詰まっている意識が阿頼耶識です。 


諸説ありますが、この阿頼耶識を行為の原動力とする立場だと、

ほぼ阿頼耶識がemotion・感情と

位置づけることもできるかもしれません。

その場合、それを突き抜けた宇宙意識にあたるのが

阿摩羅(アマラ)識になります。

玉し霊(たましひ・魂・Spirit)の世界であり、

禪で言う主人公でもあります。

宇宙意識でもあります。 


以前、ブログに書いていますが、

健康を霊・心・体で考える時、

霊は本来永遠に円通しています。

スカッとしたSkyの世界であり

カラッとした空(カラ・そら)の世界に譬えることができます。 


心は雲に譬えることができます。

雲の本体は地上生命の源である水ですが、

その変化・動きによって晴れたり曇ったり

雨が降ったり雷が鳴ったりしますが、

いろいろと気候が変化するなかで

地上が繁茂・繁栄するわけです。

晴れっぱなしでも曇りっぱなしでも駄目なのです。 


同様に、心も自然の天候が晴れたり曇ったり

雨が降ったり雷が鳴ったりするように、

笑ったり泣いたり怒ったりで

心コロコロで円通するのがよいのです。 


すると、心が身体表現されるので

体の氣血もサラサラと循環して円通し、

霊・心・体共に円通しており真の健康がもたらされるのです。 


考えてみれば、霊・心・体のうち、

霊は元より円通しており、

心と体は相互作用はあるものの主体は心で、

心が円通すれば体も円通するのです。

それ故に、“如何に心を円通させるか”が

最重要ポイントになってきます。

心は厳密に言えば今の心たる念なので、

“如何に念を円通させるか”です。 


生活習慣を身口意三業、

つまり身(しん:身体の形と動き)口(く:言葉)

意(い:曰く立つ心であり念のこと)の

三つの業(ごう:習慣)に分けるにしても、

この三業は念に発するので、

やはり念のコントロールが大切です。

三業を三密にするわけですが、

意密が大切だということになります。


お釈迦さんは、悟りに至るために

四諦(四つの諦め:苦集滅道)と

道諦の中身とも言える八正道

(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)

を説かれましたが、

最重要で中心的な項目は正念だと思います。

それは、白隠さんが”正念工夫相続”を

強調されたことからも察せられます。


正念とは”一に止(とど)まる今の心”ですが、

一とは一つであり全てであり初発であり

無限絶対無始無終である神仏と同義です。

白隠さんが勧められた十句観音経には

”朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心”

と念という語が多用され、

観音経の偈文にも”念彼観音力”とか

”念念勿生疑”等と念が多用されています。

”念仏”一語からも念の重要性はわかります。

観音を念じるのも阿弥陀仏を念じる念仏も、

正念工夫相続に含まれると思います。


各論的には、華厳経の懺悔文や

法華経の結経たる観普賢菩薩行法経、

功過格を基に徳積みを実践しつつ

准胝観音(じゅんていかんのん)の呪文を唱えて

見事に運命転換を果たした

袁了凡の「陰隲録(いんしつろく)」、

因果に囚われない不昧因果(ふまいいんが)の心構え等々が

日常生活のなかで大切になってきますが、

白隠さんに倣って、取り敢えず総論的には

”正念工夫相続”の実践が大事かなと思います。

先ず、正念工夫相続ありきで、

あとから各論的なことがついてくるのが望ましいと考えます。


仏道においては、教(教え)と

法(理屈を超えた法則を含む真理)の二本の柱が大切だと、

やはり学生時代に師匠から教わったことがあります。

主として教を伝えた方が伝教大師最澄さんで、

法を弘めた方が弘法大師空海さんだと

後になって自分なりに理解しました。


最澄さんも空海さんも教法ともに修められたのですが

(ただし、理趣経のやり取りの中に

お二人の教と法の違いが読みとれます)、

陰陽の関係でその比重が違ったと観るべきで、

お二人がいて下さったお蔭で

今日まで多くの方々が救済されてきたのだと思います。

私達もお二人の心を少しでも汲みとり、

教法ともに学び実践したいものです。


最後に、”医者がなぜそんなに宗教を語るのか?”

と思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、

念のために一言。


西洋医学が入る前は、

いわゆる東洋医学しかなかったのですが、

そもそも東洋医学は道・儒・仏の三教、

日本の場合は神仏習合なので

それにいわゆる神道が一緒になったものが

医療の土台・基礎にあったのです。


たとえば。東洋医学の根本”経典”たる

「黄帝内経(こうていだいけい)」は道教の経典です。

中国では昔から、”医易同源”と言われるように、

医学と易学つまり儒教・道教は密接不離なのです。


日本では、田代三喜、曲直瀬道三、永田徳本を例に挙げましょう。

三人は室町から戦国・江戸初期にかけての医者で、

共に日本医学中興の祖として“医聖”と呼ばれた方達ですが、

前二者は元々仏門にいた人で足利学校で易学を学んでいるし、

田代三喜に学んだ徳本は

修験道(古神道に仏教特に密教が融合したもの)に通じていました。


徳本は”徳を本とする”という名前とか、

”知足斎”の号からも雰囲気が伝わりますが、

武田信虎や信玄の侍医であったり、

将軍徳川秀忠の病を治したりだけでなく、

牛を連れて諸国を行脚しつつ貧者に安価で治療しながら1

18歳まで生きたとされます。

貼り薬のトクホンは徳本の名に由来します。


日本で東洋医学を志す者は、

本当はこのようなことは基本として知っておくべきことだと思います。


ちなみに、明治期に小松帯刀が出版した

「毉聖 永田徳本先生伝」で、

毉を使っているのは意味深です。

また、前回もブログでも触れましたが、

当院のテーマ図である天人相応太極円通図は

”東洋医学の基礎の基礎”であり、

道教・儒教・仏教・神道のエッセンスを表す図でもあるのです。 



天人相応太極円通図


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