認知症高齢者の列車事故で、家族の監督義務が争われてた裁判は、最高裁が「家族が必ず責任を負うわけではない」との判決を下した。当然の結果とはいえ、まだ多くの問題が山積する。

厚労省によると、現在は65歳以上の7人に1人だが、2025年には5人に1人の約700万人が認知症になると試算している。だが深刻の度合いは更に高い。認知症は高齢者だけではない。急増する若年性認知症もある。社会問題化するデジタル認知症だってある。閉塞した社会が、こうした疾患を加速度的に拡大させる。高齢者の認知症に、これらが百万人単位で加わる可能性が高いということだ。

一方、受け入れ側はどうか。介護士は全く足りない。高齢者の地方移住を促したところで何も解決しない。一時は富裕高齢者の持ち込む資産で潤うにせよ、いずれ崩壊する医療や介護システムにあって、財政破綻の呼び水でしかない。

今回の事件では様々な問題を提起した。行き着くところは介護職員不足である。国会でも論議は、成り手の不足であり、報酬の低さに集中する。だがそれだけだろうか。苛酷な職場環境が改善しない限り、僅かばかり報酬が増えたところで介護職員は増えないのではないか。根底に少子化がある以上、改善の余地はないからだ。

人材不足解消の切り札として外国人への門戸開放が始まっている。だが、これも茶番にしかみえない。何せ、まず「排除ありき」が見え隠れする。永年勤務を認める介護福祉士の国家試験も、日本人でさえ難解な漢字を用い、やや改善したとはいえ、今度は離職者の多さを取り上げ外国人登用に異議を唱える。

周知の通り、介護職は低賃金のみならず、重労働でも筆頭格にある。だから離職率も高い。日本人が直ぐ辞める職場に外国人だけ在職率が高い道理はない。それだけ苛酷ということだ。しかも高い経済成長率で東南アジアの所得水準も一段と向上する。母国でも収入は、あまり変わらない。疲弊する日本と違って将来性の有無は歴然としている。これでは帰国も仕方がない。

究極の解決策は逆転の発想ではないか。離職率の高いのは折り込み済みとし、帰国を前提に介護士を養成する。ODAで介護施設を建設し、そこでの勤務を促す。発展途上国でも介護問題は避けて通れない。介護システムの構築は不可欠だ。支援の見返りに「日本人高齢者を受け入れて貰う」ということだ。

3月2日の発表では生活保護世帯がまた増えた。最多層は高齢者の約80万世帯だが、この内、単身者が9割の約72万世帯を占める。貧困単身者は地方移住が適わない。如何に人口減少に喘ぐ自治体であっても資産を持たない貧困層だけは絶対に受け入れない。この先、国の財政を圧迫する究極の難題でもあるのだ。

日本仕込みなら満足な介護サービスを享受できる。会話の心配もない。全額、日本側が負担するにせよ、当面は、国内での介護に比べて大幅な予算削減にもなる。医療に加え介護システムの一括受注にも結び付く。日本なら、都会の片隅に次々と誕生する平成の乳母捨て山に放置されるだけの悲惨な末路も、温暖な土地での、手厚い介護だって期待できる。疎外されて、ひもじい思いをすることもない。奇策かも知れないが、選択肢に、こうした余生があっても良いではないか。