光る君へ



ー宣孝の死ー



1001年4月25日


紫式部との結婚後、わずか2年半であった。


死因は九州で流行っていた疫病の説


下血を伴う病、内臓疾患と痔を患っていた。

お尻から激しい痛みを伴う下血か。



ドラマでは、簡単なナレ死だった。

ナレーションでの死亡報告のみ

佐々木氏の名演技にこれでいいのか⁇

と、少し寂しい感じでした。





ー宣孝死後の紫式部ー



見し人の けぶりとなりし 夕べより

   名ぞむつまじき 塩釜の浦


夫が煙となってしまった 夕べから

製塩のために煙が上がる

塩釜の浦という名も睦ましく感じる


夫を亡くした寂しさが伝わりますね!



喪に服している間に

九州の藤原隆光が求婚してくる。

紫式部はこれを何度も断る。



和歌のやり取りもすぐに無くなり、

静かに喪に服していた。






ー定子の死後の清少納言ー



宮中を退出後、藤原棟世と再婚して、

摂津の国へ移り住む。



一条天皇とは和歌のやり取りだけはしていた。



天皇からの要望もあり、

都に戻り、

枕草子の続編を執筆する。



定子との楽しかったエッセイが中心で、

中関白家が没落する様子などの記載は一才ない

定子を貶める道長の悪行の記載もない。



道長は枕草子を批判することは出来ない。

枕草子が世にクローズアップされるほど、

道長の悪行が目立ち、

貴族からの支持を得られなくなる。



そこで、文学には文学で対抗する‼️

ここで女御たちの間で話題になっていた

物語を作っていた女に目をつける。


これが、史実での道長と紫式部との出会いとなる。

(ドラマのような出会いもおもしろい)



ところが、宮中の女御たちからの嫉妬

妬みからいじめや人間関係に悩むことに。

一旦、実家に戻ってしまうことも。






ー詮子の死ー



40歳の賀

明子の子ー田鶴(のちの頼道)

倫子の子ー巌(のちの頼宗)

天皇からの指示による、舞は史実通り。



この誕生会の2ヶ月後に亡くなる。(2月7日)

このころ、九州での疫病が京にも広がり、

詮子の身体にもかなり打撃を与えていた。

腫れ物も酷くなり、

寄生虫による病ではないか?

と推測されている。





ー伊周の息子、藤原道雅ー



伊周の厳し過ぎる息子への舞の練習風景

愛情のない教育が、

今後、悪三位といわれる問題児となる。


どんなことでも、

愛情❤️‍🩹は大切なことだね!

という、教訓とします。



伊周は定子の死から10年後37歳の若さで

亡くなる。

敦康親王が皇太子に選ばれなかったことから、

これで完全に道長に負けた。

もう、私の生きるのぞみもなくなった。

と、

気力を失ったかのようだった。








源氏物語


第19帖  薄雲



入り日さす 峰にたなびく 薄雲は

もの思ふ袖に 色やまがへる



藤壺の死を悼んで詠んだ和歌にちなむ




光源氏31歳冬から32歳秋の話



明石の御方は悩みぬいた末、

母尼君の説得もあって姫君

源氏に委ねることを決断する。



雪の日に源氏が姫君を迎えに訪れ、

明石の御方は涙ながらにそれを見送った。



二条院では早速盛大な袴着が行われ、

紫の上も今は姫君の可愛らしさに魅了されて、

明石の御方のことも

少しは許す気になるのだった。




翌年、太政大臣(頭中将葵の上の父)が

亡くなり、その後も天変が相次いだ。



不安定な政情の中、

3月に病に臥していた藤壺が37歳で崩御。



源氏は悲嘆のあまり、

念誦堂に篭って泣き暮らした。



法要が一段落した頃、

藤壺の時代から仕えていた夜居の僧が、

冷泉帝に出生の秘密を密かに告げた。



衝撃を受けた帝は、

実の父を臣下にしておくのは忍びないと考え

源氏に位を譲ろうとしたが、

源氏は強くそれを退けた。




つづく