最近考えていることについて

 

小学生のとき、「好きな体の一部について教えてください」という課題が出ました。

 

そのとき、私は「左手」と書きました。

右利きだったからです。

 

右手の方がなんでもできて、器用で活躍するけど

左手がないと、重いものは運べないし、何かと不便で

左手みたいな存在になりたいと、書きました。

 

それは先生にも刺さったようで、先生の話で取り上げられるようにもなりました。

 

ここで、私は小学生にもかかわらず、よいことを書いて、先生にもよいと取り上げられて素晴らしい

という議論がしたいわけではなくて

 

「こういうことを書けば、”いいことを書いてる風に映るだろう”とわかって書いていた。」

というところが問題だなと思っていまして

 

本当は左手なんて好きでもなんでもなくて

でもこういう論理展開をすれば、人が喜ぶだろうと

小学生ながらにわかっていて

それをこれ見よがしに書き、まんまと先生に取り上げてもらった、

そんな小学生だった自分が嫌だなと

今になって思い出すことが多くなりました。

 

この問題は結構根深くて

自分がこういうことをする人間だから

人をも疑うわけです。

 

すごくいいことを言ったり書いたりしているけど

これは本心から思っていることなのか

人からいいこと言ってる風に見られたいからいっていることなのか

すごいいいこと言ってる風だなあ

本心じゃなさそうだなあ

いやだなあ、と。

 

でもここでまた、違う観点の自分が出てくるのです。

いいことを言ってる風がなぜいけないのか?

なぜ嫌なのか?

 

小学生のころにいいこと言ってる風をした自分をなぜ嫌うっ必要があるのだろうか。

純粋を求めすぎなんじゃないか。

偽善を嫌いすぎなんじゃないか。

 

ただ、大人になるにつれて

左手を

少しずつ好きになっている自分がいて

 

まあ要は、目立ちたがり屋が、少しずつ縁の下の力持ちとなることの良さを知ったというだけの話

いいこと言ってる風って今の世の中には大事だよね、という話です。