オアシス「サム・マイト・セイ」について。 | …

i am so disapointed.

1995年5月6日付の全英シングル・チャートで人気ポップ・グループ、テイク・ザットの「バック・フォー・グッド」の5週連続1位を阻んだのは、同じくマンチェスター出身のインディー・ロック・バンド、オアシスの4枚目のシングル「サム・マイト・セイ」であった。

 
オアシスのシングル・チャート最高位はデビュー・シングルの「スーパーソニック」が31位、以下、発売順に「シェイカーメイカー」が11位、「リヴ・フォーエヴァー」が10位、「シガレッツ&アルコール」が7位、「ホワットエヴァー」が3位と順調に上がり続け、この曲で初の1位を記録したのであった。
 
とはいえ、アルバム・チャートではオアシスは前の年にリリースされたデビュー・アルバム「オアシス」ですでに1位を記録していた。その数ヶ月前には、ブラーが3作目のアルバム「パークライフ」で初の1位に輝いていた。さらにその前の年、1993年にスウェードのデビュー・アルバム「スウェード」が初登場1位を記録するのだが、イギリスのインディー・ロック・バンドが次々と全英シングル・チャートの上位に進出したブリットポップ・ムーヴメントはこのバンドのブレイクからはじまったとも言われている。
 
スウェードのオリジナル・メンバーで、後にエラスティカを結成するジャスティーン・フリッシュマンはフロントマンであるブレット・アンダーソンのプライベートでのパートナーでもあったのだが、破局して脱退した後はブラーのデーモン・アルバーンと付き合っていて、ブリットポップのロイヤル・カップルなどと呼ばれていた時期もあった。このことから、1993年の時点においてはスウェードVSブラーという図式があったのだが、1994年にはこれがすっかりオアシスVSブラーになっていた。
 
とはいえ、スウェードが急速に失速したというわけではなく、壮大なスケールを感じさせるシングル「ステイ・トゥゲザー」がヒットしたり、2作目のアルバム「ドッグ・マン・スター」がデビュー・アルバムを超える評価を得たりもしていた。ギタリストでソングライターのバーナード・バトラーが脱退したことは痛かったとはいえ、それ以上にオアシスの勢いがすさまじかった。
 
当時のオアシスの魅力といえば、楽曲の良さとパフォーマンスに加え、ノエルとリアムのギャラガー兄弟によるビッグマウスと喧嘩というのがあった。「サム・マイト・セイ」の1位を祝うパーティーに招待されたブラーのデーモン・アルバーンに対し、当時、20歳だったリアム・ギャラガーは、俺たちは1位になったがお前たちはなっていないというようなことを面と向かって言い、煽りまくる。この時点でのブラーのシングル・チャートでの最高位は、「パークライフ」からのリード・シングル「ガールズ&ボーイズ」での5位であった。
 
ブラーはアルバム「ザ・グレイト・エスケープ」からのリード・シングル「カントリー・ハウス」の発売日を変更し、オアシスの「ロール・ウィズ・イット」にぶつけてきた。「NME」などのメディアもこれをおもしろおかしく取り上げて、「バトル・オブ・ブリットポップ」としてテレビのニュースでも流れたりした。結果はシングルを2種類のフォーマットでリリースしたブラーの勝利に終わった。
 
「サム・マイト・セイ」がイギリスでリリースされたのは1995年4月24日の日曜日、日本ではゴールデンウィークに入る週の初めのことであった。このゴールデンウィークを利用して私は引っ越しを行い、ついに憧れの渋谷区民になったのだった。京王新線の幡ヶ谷が最寄りで、交通アクセス的には新宿の方が圧倒的に近かったとしてもである。後に妻になる人と三毛猫との同居生活となったのだが、新居に着くやいなや(as soon as)、荷物の整理もままならぬまま、オアシスのニュー・シングルが発売されているというのにじっとしていられるかよ、というようなテンションで、私は京王新線で新宿に行き、西新宿の雑居ビルのようなところにあったラフ・トレード・ショップに向かったのであった。当然、呆れられていたのだが、ぶっちゃけそこが良いんだろという気分は、いまでも明確にある。ざまあみろ(きもい)。
 
それで、もちろん段ボール箱が何重にも積まれた新居で再生をするのだが、実にご機嫌なロックンロール、オアシスの真骨頂だね、と思った。ジャケットにはいろいろな職業や立場の一般人のような人たちが描かれているのだが、絶妙に歌詞とリンクしていて、古い駅のモノクロ写真に彩色をした、なかなかにアーティスティックなものなのである。
 
7インチ・シングルとカセットにはカップリング曲として「トーク・トゥナイト」、12インチ・シングルにはさらに「アクイース」、CDシングルにはさらに「ヘッドシュリンガー」が収録されている。これらの3曲はいずれも1998年にリリースされたコンピレーション・アルバム「ザ・マスタープラン」に収録されている。「トーク・トゥナイト」はノエル・ギャラガーのシンガー・ソングライター的なアコースティックな楽曲だが、このパターンで最初に聴いたのが、「サッド・ソング」であった。デビュー・アルバム「オアシス」の2枚組でリリースされたアナログ盤に収録されていたが、CDには入っていなかったと思う。それはそうとしてこの曲、イギリスのテレビ番組「ホワイト・ルーム」で、ノエル・ギャラガーとポール・ウェラーによってパフォーマンスされていた。
 

 

ポール・ウェラーはザ・スタイル・カウンシルの末期には人気が地に落ちたかのような印象で、その後のソロ・デビュー・アルバムも当初は日本でしかリリースされないというような状況だった(まったくの余談だが、私は小山田圭吾がこのアルバムを買う瞬間を肉眼で見た!)が、ブリットポップが盛り上がる最中にアルバム「ワイルド・ウッズ」がリリースされ、そのクオリティーが高かったこともあり、モッドファーザーなる称号で再評価されるようになった。「サム・マイト・セイ」と同じ週にアルバム「スタンリー・ロード」からのリード・シングル「チェンジングマン」がリリースされ、全英シングル・チャートで初登場7位を記録している。他にこの週に初登場した曲としては、ビョーク「アーミー・オブ・ミー」、ウィーザー「バディ・ホリー」などがある。

 

「アクイース」はオリジナル・アルバム未収録曲を集めたコンピレーション・アルバム「ザ・マスタープラン」で1曲目に収録されるほどの人気曲で、ノエルとリアムのギャラガー兄弟による掛け合い的なヴォーカル・パフォーマンス、しかも俺たちはお互いを必要とし合っているというような内容が歌われていて最高である。そして、「ヘッドシュリンガー」はご機嫌なロックンローである。

 

日本盤のシングルCDというか、もはやミニ・アルバムといっても良いようなものには、この4曲に加え、ノエル・ギャラガーがブラーのいくつかのアルバムやワム!の「ファンタスティック」がレコーディングされたスタジオで録音中だったザ・ヴァーヴの楽器を借りて収録したという、「サム・マイト・セイ」のデモ・ヴァージョン、ビートルズ「悲しみはぶっとばせ」のカヴァー・ヴァージョンを収録していたりもしてお得である。

 

オアシスは「サム・マイト・セイ」で、イギリスの人気音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に2回出演しているのだが、この間にドラマーのトニー・マッカロールが解雇され、オーディションによりアラン・ホワイトが加入する。ザ・スタイル・カウンシル時代に一緒にやっていた、ポール・ウェラーからの紹介だったらしい。「トップオブ・ザ・ポップス」でこの曲をパフォーマンスした1回目はトニー・マッカロール、2回目はアラン・ホワイトがドラマーである。

 

 

 

この曲のミュージック・ビデオ撮影が予定されたていたが、当日にリアム・ギャラガーが現れなかったために、過去の映像などを編集したような内容になったということである。それでも、売れたのだから素晴らしい。

 

この年10月にリリースされたオアシスにとって2作目のアルバム「モーニング・グローリー」は、このリード・シングルによって期待したクオリティーをさらに大きく超えるようなものであった。「アクイース」の最後の方に、まだリリースされていなかった「モーニング・グローリー」から、タイトル・トラックの一節が引用されている。