山口の神社仏閣★妙法寺編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



山口県も徐々に新型コロナ感染者が増えて来て、対岸の火事じゃないな〜と、感じているRieruです・・・

どれ、GW中のお出かけは県内で・・・って!ほとんどの日が雨予報じゃん!


イテテ


(引きこもり計画にシフト中☆)


GW前に上限の15冊まで図書館で本を借りようと考えている女は、先月末に下松市内を歩きました。


とあるリーフレットを片手に『妙法寺』へ。


境内にあった説明板には、このように書かれていました。(割愛箇所有り)

妙法寺の沿革

   当山はもと南溟山と号し、昭和11(1936)年頃『医王山』と改称しています。本尊は薬師如来で、等身大 行基の作と伝えられていましたが、昭和4(1929)年1月4日の大火で消失し、現在の尊像はそれ以後新造されたものです。子歳 午歳交互で17年度の開帳仏です。
  当山はそれ以前 安政元(1855)年11月5日 南海地方の大地震で山門を残し全焼しています。この時当地区は壊滅しています。前記2度の大火のため詳細な寺の古文書はなく、開山一華宗順和尚 周南市久米 慈福寺二世 天文22(1553)年1月29日示寂の年を開創年代としています。
  当寺の墓地の墓石で刻字の判読できる最古のものは『南無法蓮華経為理性院宗覚居士 高水藤右衛門 寛永二十年一月二十五日殉』とあります。武士の墓と言い伝えのあるものです。

△ 立派な本堂

  当寺の東方200mの所に、元禄年間 清安寺という寺がありました。徳山藩祖の御乳母の寺でした。本流長意和尚一代で妙法寺に合併しました。


   『清安院殿光誉眞大姉 寛永二十一年三月十三日殉』そのそばに姪にあたる『光安院殿心誉周悦善信女 寛文八年九月二十七日殉』の墓もあります。
△ 蟇股の毛利家の家紋は萩藩タイプ

  山門は2度の大火を免れた古いものでしたが、老朽化のため昭和53(1978)年10月 同型に改築し晋山結制を修行しました。
   当山裏山の墓地は昭和60(1985)年に国道188号線改修工事のため、現在地 大谷に移転しました。妙法寺墓地には記念に水子地蔵尊像を安置しました。



  詩人 坂村真民先生の『念ずれば花ひらく』の詩碑を建立しました。また、記念事業として庫裡を改築し本堂を大修理いたしました。

なるほど。

本堂には、こんな松竹梅の絵がありました。


そして端には獣の姿も。


2匹いましたが、猫にしか見えません。


もし猫だとして、松竹梅と猫・・・招き猫的な?
ふと。ウチには猫が3匹いるのですが、前もって3匹いっぺんに飼うと分かっていたら、『松』、『竹』、『梅』と名付けるのもアリだなと思いつきました。
『松』はショウ、『竹』はタケ、『梅』はウメコとか、読みを変えたりして。

本堂の木鼻の獅子も素敵です。


見ようによっては、虹梁が獅子の胴体に見え・・・ると、一気に妖怪ちっくな雰囲気に。鐘を虹梁に掛けているのを初めて見ました。
別の角度から。


・・・もう、虹梁が獅子の胴体部分にしか見えません!


イテテ


(ミニョ〜ン☆てか?←コラ!)


石灯篭には『享保二年』(1717年)と刻まれていました。


大火でも、石灯篭を焼くことは出来なかったようです。

本堂の裏に行った時に見上げた屋根の上部分に目がいきました。

なんと立派な!毛利家の家紋(やはり萩藩)も施されています。


前から見ても素敵過ぎますキラキラ



え!龍!瓦に龍が!・・・角は鹿のじゃないですよね?



アイタタタ



(大きさと形が全く違います)