FBである方の指摘を見ていて、意を得たりということがありました。それは行政改革の話でして、「設置法を無くしてはどうか」ということです。「設置法」というのは、「○○省はこれこれの事項を司る」と書いてある法律であり、省庁の権限の源泉です。これは非常に通なネタなのですが、中央官庁の仕事の仕方を大きく変えることになると思いますし、行政改革としては相当な効果があるでしょう。なお、この役所の設置法を廃止すべきと強く訴えておられたのは、中川秀直前衆議院議員でした。目の付けどころが非常にいいと思います。


 上記のとおり、今の行政機構の中では、各省庁の権限は設置法で決まっています。そして、それを踏まえて政令で各局、各課クラスまで権限が決まっています。こうやって権限が定められることによるメリットは勿論あります。しかし、逆に権限争いの原因になったり、各課、各局が個別タコツボ化するがあまり、行政の硬直化を惹起したりします。省あって国なし、局あって省なしと言われるような状況は決して稀なことではありません。


 私が役所にいた際、結構不毛な省庁間協議で権限争いをしました。時には些細な権限争いで数日忙殺されたこともあります。他省庁との協議の多い部局に勤めていた時は、仕事の2割くらいは権限争い関係だったような気がします。以前も書いたことがありますが、実は日本の役所については「一人として同じ仕事をしている人はいない」という前提に立っています。それは何故かというと、世の森羅万象をすべてきちんと切り分けられており、それに権限が割り振られているということになっているからです。だから、自分の権限の話に他局、他省庁が入ってこようとすると、「俺達のシマに入ってくるな」とばかりに仁義なき戦いが始まるわけです。


 一例を挙げると、経済産業省組織令第36条第3項に通商政策課の所掌事務として「在外公館との連絡に関すること」という規定があります。今一つ、何のことかは分かりません。しかし、在外公館自体は外務省の所掌です。20年以上前に入った規定なのですが、外務省的には歴史に残るバカ法令協議ということになっています。これは政令レベルで決まっていることですが、権限争いが激しい中、外務省の牙城である在外公館に上手く経済産業省が食い込んでいるという例です。


 ただし、官僚制と権限というのは古今東西何処にでもある永遠のテーマでして、それに付随する問題はそう簡単になくなるわけではありません。


 中川秀直前議員がこの設置法廃止を訴えたのは、多分官房長官としての経験があるのだろうと思います。官邸主導で何かモノを進めようとしても、結局タコツボに籠った各省庁の縦割りの壁を超えられなかったといった経験があるのではないかなと推察しています。官房長官は正に全省庁を統括する司令塔ですから、その辺りの宜しくないところがよく見えたのでしょう。ただ、そこで「問題の根源は設置法だ」と思えるところは慧眼です。


 この設置法という考え方ですが、例えばフランスでは組閣毎に省庁再編的なことがあります。内閣毎に大臣の数が異なりますし、各大臣に割り振られる権限も変わっていきます。重鎮系が入閣する際には権限を非常に集中させて「スーパー省庁」になることも珍しくはありません。また、その内閣の懸案に応じて、ある事務を担当するのは大臣(ministre)なのか、特任大臣(ministre delegue)なのか、閣外大臣(secretaire d'etat)なのかも異なります。ともかく行政のトップである大統領が自由に組み合わせを作ることが出来るようになっています。自由に大臣ポストを作ることができるので、時々「大臣間に権限の重複があるのではないか」、「この大臣はやることがなくてヒマなんじゃないか」と思うこともあります。


 これで行政機構の縦割り、権限争いが即座に解消できるわけではないのですけど、組織文化は変化を迫られるでしょう。そして、少なくとも政治主導を実施していくための体制作りはやれるでしょう。恐らく、フランスにおいては臨機応変に組閣時の政令で対応しているはずです。


 このフランスのモデルがすぐに日本に適用できるとは全然思いません。ただ、今の組閣を見ていると、既に出来上がった設置法の枠組みに政治の側が身の丈を合わせているようなところがあります。もっと官邸主導、政治主導を貫いていこうとすれば、この「設置法」という役所側からすると当然視されている枠組みそのものを見直す必要が必ず出ます。組閣毎に総理大臣が自由にチームを編成できるようにすることは(その体制構築のための法改正はとても大変ですけども)出来るでしょう。具体的には、組閣毎に権限全般、特に重要案件の担当を配分するための政令を作るというイメージになります。ただ、霞が関の全権限を割り振る政令となるととてつもないものになりますから、ある程度の緩さ、重複みたいなものを許容する大らかさも必要だと思います。


 実は内閣府特命担当大臣の所掌事項の割り振りというのは、既に上記のような感じでなされています。ただ、これまでの政権は戦略的にその事務を特命担当大臣間で割り振れていたとは到底思えません。その辺りの問題点は、民主党政権で消費者担当、拉致担当といった大臣が何度交替したかを見ていると分かります。政権が安定しなかったり、政治の側に明確な戦略性がなかったりすると、頻繁に担当国務大臣が替わって、単に行政事務が混乱するだけになります。政治の不安定がそのまま行政の不安定に繋がりかねないという問題点になるわけです。この点はもう少し考えてみたいと思います。


 この設置法という考え方自体を見直そうという気概、中川秀直前議員が引退してからはとんと聞かなくなりました。ドカーンと打ち出し、霞が関のこれまでの硬直性に激震を走らせるにはこれ程通なネタはないんですけどね。