「沈黙-サイレンス-」見てきました。

拷問や処刑シーンがどれほど凄惨を極めているか・・・と思ったけれど、そこまでしんどくはなかったです。(もっとえぐいことを書いてあるキリシタン関連の本などを読んだりしてきたからかもしれません)
映像と色がとても美しかったこともあると思います。
あの色合い、ほんとうに絵画のように美しかったです。(アカデミー賞撮影賞ノミネート納得です!)

原作は読んだことがなかったのですが、マーチン・スコセッシ監督は聖職者になろうと思ったこともあるカトリック教徒だそうで、信仰とは何か、神と人との関係について深く考え、表現されていたと思います。

感じたことをシェアしたり、コース的に捉えてみようと思うのですが、ネタバレありなので、ネタバレ嫌いな方は読まないように~~~。




映画を見た後の第一印象は

信仰というものは「心のレベル」のものであって、それを「形(この世)のレベル」での出来事や行いによって判断することはやっぱりできないんだ、ということ。

そして、キリシタン弾圧のような、信仰が「形のレベル」での脅威にさらされた時に、人はどうやって自分の信仰を守り、保ち続けるのか。
というようなことを描いているように思えた。


わたし自身は、小学校の頃にキリシタン弾圧を歴史の授業で習ったときに、キリシタンでもないのに本気で「わたしだったら踏めるだろうか。いや、踏めない。だったら処刑されるんだ・・・」と考えたものでした。

心から信仰しているものを踏みつける、ということを強要する行為がとてもつもなく残酷に思えて、しかも、それを死にたくないからといって踏んでしまうことは、自分で自分の信仰を踏みつけにすることになる。そんなことは断じてできぬ!と小学校5,6年のころのわたしは思ったのだった。

その当時、級友にそんなことを考えた、と話したら「はあ?信じていても踏めばいいやん!」とあっさり言われて驚愕したことがあったけど(今回もわたしの周りではそういっている人が多かった。)たぶん、わたしにとってはもっともっと切迫した心の中の未解決の問題であって、そんなに簡単にそのような答えが出せる問題ではなかったのだと思う。

なんだか自分の中に「神を裏切りたくないと思って踏み絵を踏まず、結局処刑されたのに、神は私を救わなかった」という、怒りや、絶望や、やるさなさの思いがしこりのようにあるように感じていた。

それで、まさにドンピシャのテーマのこの映画を見ることでそのあたりのところに光が当たっていくといいな、と思ったのだった。



そういう感じだったので、映画を見ていても、わたしは断然キチジローよりもモキチやじいさまにシンパシーを抱いたし、虐げられ、搾取されていた苦しみのどん底の農民たちにとって、どれほどキリスト教が救いだったのかもありありと感じたし、死んでこの苦界を逃れてパライソに行けるなら、それが本望だ!と思い信仰を死守して死んでいった多くの信者たちの気持ちにも同化した。

自分が踏み絵を踏まなければ、目の前の人たちが殺されるという極限状況で、ついにイエスがロドリゴに語り掛けたとき、わたしはその内容に反発しながらも、実際イエスが言うとしたらそうだろうな、とも思った。


形ではない。

踏み絵を踏んだからと言って、あなたの信仰が損なわれることはない。

それは何の結果ももたらさない。


わたしにはイエスがそういっているように感じられた。


棄教した二人の神父のその後は、行為としては同じでも、心のレベルではまったく違うものだった。

フェレイラは転んだ事実を正当化するように、この国は沼でキリスト教の信仰は根づかない。彼らは教えを歪めてしまった。と言う。

ロドリゴは決してキリスト教について語らず、祈りのそぶりも見せず、定期的に踏み絵を踏み、ご禁制品の監査を行い、信仰を捨て去って生きているように見せた。

けれど、形の上で祈らずとも、語らずとも、教えずとも、広めずとも、彼の心には信仰が生きていた。


ただ沈黙の中で神を求め、神を慕い、神に語り掛け続けた。

「沈黙」というタイトルの意味はそこにあるのではないだろうか。



コースの学習者は、自分の学びについて、語る必要も、教える必要もない。

ただ自分と内なる教師との関係の中で、この世界を教室として学び、赦しを行っていく。

他者の自我をおびやかさず、他者の信じるものを否定もせず、この世界を存在すると信じている人を拒絶もしない。

実際には自我も、この世界も宇宙も存在しないのだから、それらを拒絶するのではなく、それらを自我の理論を逆手にとって使いながら、天国への階梯を一歩一歩登っていくだけだ。

ただただ、静かに、穏やかな喜びをもって学びと実践を続けていく。

そうして、語らずとも、神の導きと共に生きていく。


そうした「心」、「内容」を見つめ続けることが本当に大切で、そこを理解しておくことが、心の移行にとってもとても重要なことなのだと思う。



一緒に見た友人が「キチジローは弱くない!あの人が一番強い!」と言っていたけれど、キチジローは弱さを盾にしてしたたかに生き延びているともいえる。
たしかに、キチジローは強い。

何度踏み絵を踏んでも、「おれはキリシダンだ」と言っているし(笑)

転ぶことを求めるお上の言いなりになっているように見せかけて、実はキリシタンであることをやめない。

棄教し、帰化し、幕府のために働くロドリゴに「パードレ」と呼びかけて平然と懺悔させてくれという。

そんなキチジローにわたしは「お前はバカか。自分のことばっかりか!」と思ったけど。

今となっては、キチジローこそが、「形によらない信仰」を体現していた人なのではなかったかな、と思うようになった。

心の中でデウスを信じ、自分はキリシタンだと思い続け、心の中で信仰を捨て去っていないならば、形のレベルで何度踏み絵を踏もうと、ずるい人間、弱い人間に見えようと、それは心の中の神との関係を裏切ることにはならない。

何度も裏切りながらも、ふてぶてしく赦しを請いに来るキチジローに、ロドリゴは時にうんざりしながら赦しを与え続ける。

キチジローは自分がそうなのだから、ロドリゴもそうなのだろうと、棄教した後のロドリゴの信仰にも何ら疑いをさしはさまなかったのではないだろうか。

踏み絵を踏んでも、転んでも、自分が心からそれを捨て去ってしまわない限り、それで信仰が失われることは決してないとキチジローは知っていたのではないか。

簡単に神を信じ祈ることができていた環境から切り離された場所で、ロドリゴはキチジローとの関係の中で信仰や神についてより深く考え、祈りや赦しとはなにかを神に問いかけ、考え抜いたはずだ。


「Faith」とは心の中での深く静かな神との交歓であり、またそれを求める心であり、形のレベルのなにかによって損なわれることも、失われることも決してない。


形のレベルでも信仰を貫き死んでいった人たちも、無為に死んだのでも、死によってそれが失われたのでもなく、自分自身に行為を通して信仰を証ししたのであり、殉教した人たちも、棄教した人たちも、それぞれが、それぞれの心を、形のレベルで表現した行為だったのだと思う。

ここには、間違いも正しさもない。

ただ、神を、天国を心から求める無垢な祈りがあるだけだ。

そして、その祈りへの返事が、今こうしてわたしの心にも届いているのだと感じる。



劇中に登場したエル・グレコのキリストの顔、とても美しかったなぁ。

新潮社のサイトで遠藤周作さんが「沈黙」について語った講演が3月末まで聞けます
とってもよかったです。
 
http://www.shinchosha.co.jp/book/112315/#b_section01



スコセッシ監督の「最後の誘惑」もずいぶん前に見たきりなので、また見直してみよう。





 

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愛を求める呼び声だけが聞こえる

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映画二本立てを見てきました。

「リリーのすべて」「ルーム」

 


どちらも、現代を生きる中で、そこに問題に直面している人がいることを、真摯に捉え、描いているとてもいい映画だった。

「ルーム」のことはまったく知らなかったのだけど、すごく深くていいだった。

7年間ある小さな部屋(ルーム)に閉じ込められて暮らしている母、そして5歳の息子。

予告編では「その部屋から出る」ということにフォーカスが当たっている感じだけど、実際には「その部屋から出た後」について深く描かれていた。

 


ネタバレにならないように、内容については深く書かないけれど、映画を見ていると、その出来事に入り込んで泣いたり感動したりする。

そして、映画館を出て映画の内容を振り返るとき、スクリーンから離れ、脚本から離れ、もっと広い視点でその内容を見つめる。

それはコースのもつとてつもなく広くて深い視点から、映画の物語を見つめ直し、さらに自分の人生を俯瞰して見つめる手助けにしているのだな、と思う。


聖霊の視点から見れば、「世界は存在していない」

それは真理においてはゆるぎない事実であり、愛だけが存在するすべてだ。

 

けれど、この世界で、分離した個人だという認識の下で生きているわたしたち一人ひとりは、人生で直面するさまざなま出来事や問題に立ち向かい、対処していかなければならない。

 


リリーは性同一性障害という、心と体が引き裂かれた苦しみを隠し続け、最後にはそれに向き合い、本当の自分になろうとする。

その妻ゲルダは愛する夫が夫ではない別の人物に変容していくことを、自分の夫への愛と執着を超えて受け入れなければならない。

小さな部屋に閉じ込められていたジョイは母となり息子を育てながら、いつかその部屋を出で、元の生活に戻ることを願い続けていた。

母と共に小さな部屋だけをその宇宙として5年間生きてきたジャックは、外の世界を知らないがゆえに、その小さな部屋を無限の宇宙のように感じていた。
 

 

コース的に見れば、形のレベルではさまざまなストーリーがあり、そこにまつわる葛藤や恐れや苦悩や罪悪感があり、それを形のレベルでどう行動しても、結果を変えるだけで、原因を変えることはできない。

コースを学び始めた当初だったら、紋切り型にそういうことを感じ、そういうことを人にも自分にも言っていたけれど、今はまたさらに違う視点がうまれている。

映画の中で、登場人物たちがとる、形のレベルを変えようとする行動や、それに向かっていく意志や意欲が、

 

「ほんとうに幸せになりたい」

 

「自分がほんとうに無辜であり、あらかじめ奪われたものも損なわれたものもないと知りたい」

 

「自分がただただ愛し愛されている存在だということを感じたい」

 

という、愛を求める呼び声(または叫び)のように聞こえるのだ。
 

 

そして、彼らの呼び声は、もうすでに聞き届けられていて、すべてが癒されているのがわかる。

 

そうしてわたしは、それは自分の呼び声だったことに気づき、わたしの祈りもすでに聞き届けられていることを感じる。


この世のすべてが、娯楽や芸術や魔術も、批判や裁きの対象ではなく、ただただ、神の愛を思い出したいという、神の子の必死の呼びかけのようにしか聞こえない。

そして呼びかけるなら、必ず応えられる。

求めれば、あたえられる。

今、それを受け取るかどうかとか、いつそれに気づけるのかとか、そんなことはどうでもよくて、わたしたちは絶えず神に助けを求めていて、それは必ず聞き届けられる(すでに聞き届けられている)ということだけが大事なんだと感じる。

映画を見ると、いつもそんなことを感じる。

そして、それが映画の登場人物だけではなく、わたしにも、すべての人々にも、今起こっていることなんだと思うと、すべてがとても愛おしくなる。

 


リリー(百合)は純粋さと無辜であることの象徴。

 

喜び(ジョイ)という名をもつ女性が、苦しみを超えて本当の自分の人生のよろこびを見出していく。
 

そんな符号やサインは、わたしたちの現実にもあふれかえっていて、聖霊はいつでも愛と勇気を差し出してくれている。



映画っていいなあ。

楽しみながら、人生を俯瞰して見て、捉える体験もできる。



 




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愛を信じる

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少し前からインターステラーをまた見たかった。

仕事が少し落ち着いたのでレンタルしてきました。


何度も見ると初めて見た時の衝撃は薄れるけれど、物語の奥の意味はその時々によって深くなっていく気がします。


映像も、脚本も、役者もいい。

ハンス・ジマーの音楽もすごくいい。


初めて見た時に感じた、あの遥かな時間と空間を旅して旅して、故郷へ、家族の元へと主人公が戻ってきた時のあの安堵感。そして不思議な全てが一巡りして、最初からあったのに見えなかったものが見えてくる感覚。
SF映画や物語でよく感じる、その感覚が好きだ。


科学の合理性と客観性においては「愛」ほど不確かで、個人的に過ぎるものはないのかもしれない。

でも、愛に向かっていこうとする女性科学者が言う。



「愛は人間が発明したものじゃない。

愛にはなにか特別な意味がある。

愛はわたしたちにも感知できる。

そして愛は時空を超えることができる。

だからたとえ理解できなくても愛を信じていいと思う。」



登場人物たちは、互いの痛みや恐れや傷を投影しあってなじりあったり、怒りをぶつけ合ったりする。

それでも、愛を選ぶことを決めた時に、愛は全てを超えて彼らをつなげて行く。


ブラックホールに飛び込んで、事象の水平線の彼方に向かうとどうなるのか、まったくわからなくても、クーパーは愛によってそこに飛び込んでいく。

何が起こるかでもなく、なにをするかでもなく、ただ愛だけと共にある事だけを選べばいい。





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ナショナルシアターライブでハムレットを見てきました。

これは、去年の9月にロンドンで見た舞台を撮影したものです。

舞台はもちろん英語なので、話のあらすじや日本語訳は読んでいたのだけど、やっぱり
日本語訳を演技と同時に読んで見たいと思っていたので行ってきました。

本の形で読むハムレットはまったく面白さを感じなかったのですが、それを生きた人間の
感情を伴った言葉として、動きも伴ってみると、たしかに面白さを感じました。

ロンドンで舞台を見たときは2階の最前列と、1階の5列目というとてもいい席だったのだけど、
それでも役者の表情までは事細かには見えなかったものが、映画ではハッキリ見ることが
できてそれもよかったです。


最後には舞台上に4人もの死体が転がっているというこの悲劇がなぜ400年も上演され続けてきて、
イギリスの舞台俳優をして「いつかは演じたい」と言わしめるのか。

他のシェイクスピア作品を読んでいないので、深くはわからないけれど、今回の舞台と
映画を見て感じたのは、シェイクスピアはハムレットで(もしかしたら他の作品でも)、
主人公にフォーカスして主人公の生きざまから何かを感じるというよりも、登場人物すべてが
愚かで、哀しくて、苦しんでいて、葛藤している。人間とは、この世とはそういうものなのだ、
ということを描きたかったのではないか。と思えた。


ハムレットという主人公にフォーカスを当てて読むと、ハムレットが何を考えているのか
よくわからない。

あんなにクヨクヨと弱音を何度も吐くし、オフィーリアにはすれ違う心に苛立って激しく
傷つける。

母親に対してもあまりにもあからさまな批判を行って「お前は私の心を真っ二つに引き裂いた」と
言わせててしまう。

そうかと思えば、プロの役者に向かって得々と演技の手ほどきを行ったりもする。

そして、狂気の演技の意味は?ただの引き延ばし作戦だったのか???


自分ひとりが重荷を背負わされ、秘密を知る苦悩にさいなまれているように葛藤して見せるけれど、
何度読んでもわたしはハムレットの自己中心ぶりに感情移入できなかった。

けれど、ロンドンでの舞台を見終わったときに感じたのは、シェイクスピアはハムレットに
共感してほしいと思ってこの物語を書いたのではないのだな、ということだった。

ハムレットの目を通して世界を見るという視点で描かれているけれど、主人公だからすばらしい
とか、主人公が成長して幸せになったり、何かを達成するということを描くことをやっているの
ではない。

この物語をオフィーリアの視点から描いたとしても、クローディアスの視点から描いても、
ガートルードの視点から描いても、まったく同じような自己中心的な主人公になったんじゃない
だろうか。

そして、ハムレットが完璧な主人公ではないと言っているわたしは、常日頃ハムレットの
ように嘆いたり、クヨクヨしたり、自分を憐れんだり、なじったり、誰かを責め立てたり、
やつあたりしたりしていないだろうか?

そしてわたしはとんでもなく自己中心的な考えを毎分毎秒、もっていやしないだろうか?

そこまで考えが流れていったとき、ハムレットはまさに自分の写し鏡なんだと思った。

かっこよくも、いさましくも、完璧でもなく、クヨクヨとすべてを嘆き、怒り、自分と他者を
攻撃している自己中心的な人物。

これは、まさにわたし以外の何ものでもなく、そして、すべての人がそうやって生きていると
いうことを描いている物語なのだ。


兄であり、デンマーク王を殺したクローディアスが一人で、
「祈りたくても祈れない。その思いより強い罪の意識に押しつぶされる。」
と深い罪悪感に苦しみながらも、
「天使よ、助けたまえ!」
とひざまずいて祈り始める場面には心打たれた。

厚顔無恥な人殺しのように見えるクローディアスも、心の中に深い罪悪感を抱えてそれを
必死でひた隠している。

そして、祈りたくても祈れないという葛藤を超えて、懺悔しようとひざまずく。

ここにクローディアスの独白が入ることで、物語がぐっと深みを増しているように思う。

しかし、改心の可能性があるクローディアスをハムレットは赦すことができない。

それも、わたしの、わたしたちの憎しみに曇った心そのものだ。



自我に支配され、自我に翻弄される人間たちの生きざま。

それを乗り越えようとしながらも、飲み込まれてしまうこの世の理(ことわり)。

その無常を、哀しみをシェイクスピアは描こうとしたのではないかなぁ。



今回の映画で印象的だったハムレットのセリフ。

「来るべきものはいま来れば、あとには来ない。あとで来ないならば、いま来るだろう。
いまでなくても必ず、来るものは来るのだ。」

これはハムレットが自分の死を覚悟したセリフなのだけど、わたしにはハムレットの心の奥に
隠された、救済への導き手が語っているようにも聞こえた。

復讐や怒りを手放せば、救済はやってくる。でも、いまそれを手放さないなら、救済は
やってこない。けれど、いつか必ずあなたはそれらを手放して救済を求めるだろう。

と。

わたしたちは愚かさの限りを尽くして、尽くして、その後に、ようやく涙に濡れた顔をあげて、
ひざまずいて、心から愛を求めて祈り始めるのだろう。




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虚構

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立て続けに二つの映画を見た。

「オール・ユー・ニード・イズ・キル」と「インターステラー」

「オール・ユー・ニード・イズ・キル」は映画館で見損なっていて、ふっと、見よう~
と少し前に思った。

レンタル屋さんに行くと、「インターステラー」も出ていたので、SF2本を借りてきた。

「インターステラー」は映画館で見てブログにも感想を書いたけど、「オール・ユー・ニード・
イズ・キル」は初見。

「オール・ユー・ニード・イズ・キル」は「ミッション8ミニッツ」とか「恋はデジャヴ」
みたいな同じ時間、同じ一日がループする、という設定のSF。

「マッドマックス」とはまた違う「生存のためのサバイバル」を賭けた物語で、死んでは
生き、生きては死ぬの繰り返しの中で、主人公はだんだんと自分の役割を見出し、受け入れ、
それに向かっていく。
地球にやってきた侵略者との攻防は絶望的で、危機に次ぐ危機。

それを息をのみながら見ていた時、ふっと


この絶体絶命に見える危機、生きるか死ぬかしかないような究極のドラマ。

「これらは完全に存在していない」


ということが感じられた
一瞬があった

この感覚は映画を超えて、わたしたちがこの人生、この運命、この宇宙、この生命、と
思っているものに関してのものだった。

確かにあると見え、感じているわたしたちの人生におけるさまざまな筋書きや物語。
そしてそれは結局死へと行き着く。

わたしたちは個という肉体を維持するために、この過酷な戦場のような世界で戦い、サバイバル
を続けている。

そういった、「わたしたちが生命の営みそのもの」と当然思って受け入れているドラマ
そのものが「完全に存在していない」と感じたのだ。

そしてその薄っぺらいドラマじたての表層の奥に、圧倒的な巨きな「なにか」を感じた。

それは言葉にするなら、たとえようもない安心感、平安、やすらぎ、のようなものだった。

本当はそれだけが存在しているすべてなのだ。


この世界で繰り広げられ、わたしに影響を与えているように見えるさまざまな出来事やドラマ。

この世のレベルに真の原因はないとわかっていても、ついそこに反応し、結果のレベルでの
原因を探そうとしてしまう。

もちろん、それをやっていることに気づき、赦していくから心が癒されていくのであって、
「世界はないから目の前のこの出来事は起こっていないんだ」と否定していくことは、赦し
ではなく、隠蔽にほかならない。

赦しや学びの実践レベルでは、わたしたちは「世界はある」と感じていて、あれやこれやの
ドラマや物語なのかでサバイバルしている。

けれど、今回感じたのは、その幻想の間隙を縫って、「世界は存在しておらず、肉眼の
目に映るものや、体験しているこの戦場でのできごとすべても、存在していない。」という
ことだった。

確かにあるように見えるドラマや物語の語られているバトルフィールドは薄い布のような感じ
で、その背後にある永遠に揺らぎないものを覆いつくそうとしている。けれど、永遠なる完全性
はあまりにも巨きくて、覆い尽くすことなどできない。


わたしたちが目にしているバトルフィールドは、自我のゲームにすぎない。

死んでは生きる。生きては死ぬ。

さあ、その中で、解決や、成長や、成就や達成をいかにやるか!というゲーム。


でも、結局なにを達成したとしても、結局は死で幕を閉じる。自我の一人勝ちのゲームだ。


しかし、こんなばかげたゲームは実はまったく、いっさい存在していない

あるのは永遠の全一だけ。


それを一瞬とはいえ確かに感じたことは、わたしにとっては深い学びだった。

こつこつと学びと実践を続けていく、こんな風にじわじわと、真理が体験として理解する
ことが起きていくのがおもしろい。



続いて見た「インターステラー」

こちらはクリストファー・ノーラン監督の大作。

3時間近く、じっくりと、そして圧倒的な映像で壮大な物語を描き出す。

父と娘の時空を超えた愛がいかに人類を救うのか、ということを、最新宇宙物理学に基づい
て映像化していてとても美しい。


「インターステラー」を見ていても、やはり、「この世界は虚構でしかなく、いっさい存在
したことすらない」という感覚が起こった。

SFにはほんとに「死と紙一重の危機」というものが頻繁に描かれていて、

それと同時に、求めるということ、あきらめないということ、信頼するということへの深い
コミットメントを受け取った。

そこには能動的な意志があり、それは決して強制されるものでもなく、単に受け身でいれば
受け取れるというものでもなく、いかに自分の意志で、意欲を捧げ続けていくかということ
なんだということを深く感じた。


コースを始めたころは、学びが進むと映画を楽しめなくなるのか?と心配したことがあった
けど、そんなことはなかった。

むしろ、映画というシナリオがあってドラマを作っている視点のものを見ることで、自我の
精神力動が透けて見えることが多々あっておもしろい。

もちろん、コース的な解釈などせずに、ただエンターテイメントを楽しんでいることもたく
さんある。


それにしても、やっぱりターズかわいいなぁ・・・。





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約束の地への希望

テーマ:

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「マッドマックス・怒りのデスロード」を見た。

主演のトム・ハーディは好きだけど、見に行こうとは思っていなかった映画。

でも、ハマった友達が3回目を見に行くから一緒にどう?と誘ってくれたので行ってみた。


とっても面白い映画だった。

なんというか北斗の拳の世界を炎を噴く車とかバイクが疾走しながらものすごい戦いを
繰り広げるような映画で、狂気と暴力が支配する世界を、いかにサバイバルするかが
描かれている。

映像の色とか、衣装とか、美術とか、キャラクターの凝り方が半端なく、かつ細かい
突っ込みどころ満載で楽しかった。笑

AKIRAを彷彿とさせたな。
「輸血袋」って発想にはぶっとんだ~~~。笑

※昔公開されたメル・ギブソンの「マッドマックス」は北斗の拳に影響を与えていて、
ジョージ・ミラー監督は「AKIRA」に影響を受けたと言っているそう。まんまやんか。笑



映画を見ている時は、純粋にエンターテイメントとして楽しんだのだけど、夜道を
ドライブして帰りながら(映画の影響で無茶な運転をしてしまいそうなのを思いとどまり
ながら。笑)何ともいえないドキドキ感がわき上がってくるのを感じていた。


そのドキドキは、ものすごい恐れみたいなもの。

なにが恐ろしいのか、より深く見ていくと、それは「未来」のようなもののようだった。

なにか未来に悪いことが起こると決まっているような。

絶対によからぬことが起こるに決まっている。という確信のようなもの。


でも、ふと遠くの真っ暗な山と空を見たときに、その未来への不安がさーっと晴れて、
ただ開けた現在(いま)のようなものを感じた。


今この瞬間、わたしの状況は少しも不幸でも悪くもない。

それなのに、恐れや不安を感じている。

ということは、これは「未来」にはまったく関係がなく、今(現在)わたしの心の中に
「恐れ」があるということ。

それは外側にあるように見えている形態とははなんの関係もない。


形態にくっつけた間違った知覚の奥にある、「分離の想念」だけがぽっかりと浮かび
上がって、胸の奥に渦巻いているのが感じられた。

最近よく感じる感覚だけど、映画を見たりしても、よくそれが起こる。

映画は虚構だとわかっているから、そこから誘発された感情、それをきっかけに投影した
ものと、ストーリーが分かれやすいのかもしれない。


そうやって、形態にくっつけずに見れば、完全にそれが初めから自分の心の中に
あることがわかる。

その分離の想念を生み出したのは自分で、それを自分に適用し、それと同化し、
自分がその悪夢の作者であることを完全に忘れることを選んだ。

こんなこっけいなことがあるだろうか?

こんな無意味で空虚な茶番劇があるだろうか?


それを生み出し、選んだのは自分だけど、わたしはもうこれ以上それを選び続けたくはない。

わたしは聖霊を選ぶ。

神の子である自分を思い出したい。

贖罪を受け入れたい。

すべてはすでに解決されているということを受け入れたい。


そんな風に祈り、赦しながら帰ってきた。



映画の最後に「約束の地はあるのか」という言葉があった。

約束の地と言うのは旧約聖書に出てくる、神がイスラエルの民に与えると約束した
場所のこと。



コース的に言えば、約束の地はすでにあって、今もわたしたちはそこに居る。

約束の地があるか、ないかではなくて、「すでにそこにいる(というよりも、一度も
そこを離れたことがなかった)」ということをわたしたちがその真実を受けいるか
どうかなだけだ。


マッドマックスでは、主人公のマックスが
「希望は持つな。心が壊れた先にあるのは狂気だけだ」
と言うのだけど、わたしはこの映画を観終わって、力強い希望を感じた。

そして同時に、どれだけ深い闇を心の中に隠し持っていても、その闇に気が遠くなる
ような思いがしても、それを光へと運ぶことをわたしはやめないだろう、という信頼も
感じたのだった。




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やってもいない罪

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「サン・オブ・ゴッド」を観た。

感じたこと、そして体験をシェアしようと思って、だいぶ時間がたってしまった。

この映画は、イエスの生涯を聖書に基づいて描いた映画で、わたしは聖書といえば
マンガ聖書しか読んでいないので、聖書でどのようにイエスが描かれているのかを
見たいと思ったのだった。

「神の使者」では、聖書ではイエスが実際に語った言葉も、語らなかった言葉も
記されている、と書かれているし、映画を見ていてわたしも「イエスはそういう言動を
おこなっていないのじゃないかな?」と感じるシーンもあったのたけど、ニコデモとの
対話で語ったイエスの言葉は、本当にイエスが語ったものだったように感じられた。


イエス:あなたも神の国を見ることができる。
    しかし、それにはもう一度うまれなければならない。

ニコデモ:もう一度生まれる?どうやってもう一度生まれるのですか?

イエス:生まれ変わらなければならいんだ。肉体ではなく、スピリットとして。




ラストシーンでヨハネがイエスに出会うシーンは本当に感動した。
わたしたちひとりひとりのところにも、聖霊としてのイエスがやってきて、
導いてくれていることを見せられたようだった。


わたしは道であり、真理であり、生命(いのち)である。


というイエスの言葉が心に染み渡る。


ここは、コースでは

私がいつもあなたと共に居るので、あなたが道であり、真理であり、生命(いのち)である。
(奇跡講座テキスト編 T-7.Ⅲ.1:9 (中央アート出版社刊)



となっている。

こちらのほうが、やはり、イエスが本当に言わんとしていることがよくわかる。



そうして感動で目を赤くして映画館を出たのに、家路へのドライブ中に、
ものすごい罪悪感が浮かび上がってきた。

折よく、その罪悪感を投影できるメールがやってきて、強い怒りと不快感を
感じた。それを赦すと、その出来事は消え、ただ罪悪感だけが残った。

それでハッキリわかったのが、自我はほんとうに投影できるものを常に虎視眈々と
探しているのだ。

それはどんなことでもかまわない。自分の感じている怒りや罪悪感や、どうし
ようもない痛みを感じなくて済むためなら、誰をどれだけ攻撃したとしてもか
まわないと思っている。

わたしが今感じているこの痛みすら感じる罪悪感を、赦すことを選ばなければ、
抑圧、否認してしまい、それが結局投影されるということもハッキリとわかった。

投影なんかしてたまるか!絶対にこれを直視する!と決め、聖霊と共にそれを
見つめはじめた。

何度も深呼吸をして、大丈夫だからと自分をはげましながら。


その罪悪感を言葉にするなら

「わたしはイエスを裏切った」

という感覚だった。

「そうだ!確かに裏切ったよ!やっちゃったよ!!」といういたたまれない罪悪感に
押しつぶされそうになり、死ぬほど苦しい。

それでも、絶対にイエスの手を離さない!と思いながら、その罪悪感を見ていた。

そうしたら、内側から

「あなたは私を裏切っていない


と声がする。

「いや!裏切った!裏切りましたとも!」と言い張っても、
「いいや、あなたは私を裏切っていない」と声がする。

その声はおだやかで、確信に満ちていいて、ゆるぎない。

何度も何度も繰り返しやってくるその思いを、何度も何度も自分の罪悪感へ
と向けていった。

イエスの言っていることは、こういうことだった。


「あなたは私を裏切っていない。裏切ったと思っている、信念があるだけだ。」



やってもいないことを、やったと思い込んでいる思い込みの狂気だけがある。

その「思い込み=考え」だけがある。

「自分はやった」と言い張っている考えだけがある。


最近の学びでやっと深い理解が起こってきたコースの核心部分。

小さな狂った考えを深刻に受けとめているだけ。


そうやって、イエスの励ましと共に自分の罪悪感を見つめていると、だんだん
楽になってきた。

それと共に、イエスの愛がうれしくて、その場にひれ伏して祈りたい気持ちに
なってきた。

イエスのやさしさに、確信に、愛に、すべてを投げ出したくなった。

すべてを投げ出して、ただただそのやさしさと愛に溶けていきたかった。


ドライブしながら車の中で、イエスに主導してもらうことを願い、完全なる無罪の
神の子であることを思い出せるように祈り、ただ聖霊の導きだけを完全に信頼して
いく意志を差し出し続けた。

こんなに、全身全霊で祈ったことはなかったかもしれない。

心の五体投地という感じ。笑

不眠ぽい状態が続いていたけれど、この夜はぐっすり眠ることができた。


ひとつひとつ、この瞬間も信じ続けることを決断している「小さな狂った考えを
深刻に受け止めた」ことのエコーのようなこだまを、ひとつひとつ赦していける
のはほんとうにすごくうれしい。

どこまでも、ありもしない罪をあることにしている信念を赦していけるのはうれしい。



優しく笑いながら、聖霊はその原因を知覚し、結果には目を向けない。

それ以外にどのようにして聖霊は、原因を完全に見落としてきたあなたの誤りを、
訂正することができるだろう。

聖霊はあなたに、それぞれの恐ろしい結果を聖霊のもとにもってくるようにと
告げる。

それにより、一緒にそのばかげた原因を見て、共に少しの間笑うことができる
ようにする。

あなたは結果に審判を下すが、聖霊はそれらの原因にすでに審判を下している。

そして、聖霊の審判によって結果は取り除かれている。

あなたは涙を浮かべながら来るかもしれない。

しかし、聖霊が次のように言うのを聞きなさい。

「聖なる神の子である私の兄弟よ、あなたの無為な夢をよく見なさい。
夢の中だからこそこうしたことが起こりえたのである」と。

そして、あなたは聖霊の笑い声とひとつになった兄弟と自分の笑い声を聞きながら、
聖なる瞬間を後にするだろう。

T-27.Ⅷ.9:1



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信じる

テーマ:
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マトリックスリローデッドをなにげなーく見ていた。

相変わらずマトリックスの2と3は意味がよくわからないのだけど。

最後のセリフはシンプルですーっと心に入ってきた。



セラフ:全て知っていた?


オラクル:いいえ、まさか。

          でも、信じていたわ。

           信じていたの。


マトリックスレボリューションズより


星々の彼方へ Journey Beyond the Stars

テーマ:




Do not go gentle into that good night,
Old age should burn and rave at close of day;
Rage, rage against the dying of the light.


おとなしく夜を迎えるな

賢人は闇にこそ奮起するもの

消えゆく光に対して果敢に挑むのだ



「インターステラー」の内容に触れるネタバレはなるべくせずに書いています。
 ネタバレ厳禁な方は鑑賞後に読んでくださいませ。



「インターステラー」を見た。

予告編ではまったく惹かれなかったのだけど、監督がクリストファー・ノーランだと知って、
俄然見る気に。

ノーラン監督の「インセプション」がすごく面白かったから。
(「ダークナイト」はジョーカーの狂気に震えたな~)

「インターステラー」、3時間近くあって、親子の絆から宇宙探査や高次元に至るまで、
じっくり描かれていてよかった。

なにかと涙が出てくる映画で、ティッシュ5枚がビショビショになった。



相対性理論とか、難しいことはわからないのだけど、この映画を見て感じたのは、


時空を超えるのは「愛」だけだ。


ということ。



人類の存亡をかけて決死の宇宙探索に出かける、というSFでありながら、「愛」という
形もなく、見ることもできないものを深く描いている。


そして、人類を助けるのが○○○ではなくて○○だったというところもすごくよかった。
(※ネタバレ回避のため伏字でお送りします)

これはほんとにすっごくいい描き方だと思った。


一人の人間の意志が、どれほど時空に作用するか、

というよりも、意志だけが時空を超えていく。

そのことを強く感じた。



もしかしたら、人間のもちうる最大の力は

「意志して選択する」

ということなんじゃないだろうか。



そしてこの映画では、父娘の愛と絆が深く描かれていた。

帰りに車を走らせながら、その関係を自分に重ね合わせて、いろいろ捉えられるものが
あった。

主人公の娘のマーフのように、わたしも父から見捨てられたと感じていたけれど、それは
自分自身の中に最初からあった分離の信念が具現化したものだった。

そこに愛がなかったわけではなく、わたしが悪かったわけでもなく、父が悪かったわけでも
ない。


わたしの中に、「わたしは愛から見捨てられるに違いない」「わたしは愛に値しない」
「なぜならわたしは罪を犯したから」というゆるぎない信念があり、それは人として生を受け
た時からこの意識に刻み込まれていて、そのことが映し出された現実だったのだ。

意識はほぼその罪悪感でできていて、その上その罪の意識は無意識に隠されていて自動
的に働いている。

だから、望もうと望むまいと、愛を失う体験を私たちは繰り返し続ける。

自分が愛を捨てて、愛から逃げ出して、愛に見つからないように隠れつづけ、愛を避け続け
ているのだ。

それは愛を恐れ、愛を嫌い、愛を憎んでいるということでもある。


そのことがハッキリとわかった。



それならばやはり、自分を救うのは自分の心から罪悪感を払しょくしていくことだけだし、
それが自分を救い、人類を救い、、宇宙を救い、時空を超えていくことになる。


そして時空を超えた、その先の真実へと。


愛は時空を超える。


愛だけが実在する。


実在しないものは存在しない。




それにしても、あのロボ・・・かわいかった。
ほしい・・・。(右端の四角いの↘)




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鏡像

テーマ:




ロンドンのナショナルシアターの演劇を撮影した映画「フランケンシュタイン」を見てきました。


原作とはすこし違う内容らしいけど、現代的な切り口ですごくおもしろかった。


「神になりたかった神の子(フランケンシュタイン博士)」とその「被造物(クリーチャー)」の話
であり、
この二人は完全な鏡像になっている。


誕生したときは無垢だったクリーチャーが、見た目の醜さから人々に憎まれ、攻撃され、
その孤独と怒りから人を殺す本当の怪物になってしまう。

自然の中で喜ぶ無垢なクリーチャーを見ていると、彼を心まで怪物にしてしまったのは、
周りの人々の冷酷さや無理解さだとも思ったりするのだけど、
最後の最後で博士が



「自分は愛を遠ざけてきた。愛がわからない。自分の心には憎悪しかない。」



というのを聞いて、だからこそクリーチャーの心にも憎悪があったのだとわかる。

博士の被造物であるクリーチャーは、無垢などではいられなかった。

神に成り代わろうとした「分離した心」には、罪なきものは生み出せない。

これはすごい描写だった。




一番印象に残ったのは、クリーチャーが人を殺したことを責められて、自分を創った
創造主である博士に言った言葉。


You caused this!  
お前が引き起こしたことだ!

This is your Universe Frankenstein.  
これはお前の宇宙だ。



「cause(原因)」という単語が入っていて、ドキっとした。

しかも、宇宙を作ったのが誰かまで、博士(意識)は喝破されている。(笑)

一番エキサイティングなシーンだった。



愛を求める叫びを上げ続ける二人は、互いの中に自分への特別な関係(愛と憎悪)を
見出し、地の果てへと歩み続ける。

そこには絶対に他者が入り込めない、愛と憎悪の分かちがたい絆があり、二人はそこに
しか慰めや愛を求められない。

「分離した心(意識)」と「自我」の究極の相互依存と、究極の結びつきと、究極の癒しを感じる、
破滅的な、でも自我的にはハッピーエンドですらある結末。



自我が求める特別性が本当によく描かれていた。



わたしたちみんなが、そんな風に心の中で自分自身をなんとか保ち、慰め、注目して満たして
くれる愛を求めている。

一時的に得られたとしてもそれは破滅的な結果に向かうしかない。

最後まで幸せに添い遂げたとしても、自我には「死」という切り札がある。


ラストシーンを見終わって、そこにわたし自身と、すべての人々の愛と助けを求める呼び声を
聞き、愛おしさを感じた。



ただただ、わたしたちは救われたいだけ。


愛に満たされたいと願っているだけ。


今この瞬間、そうであることを思い出したいだけ。






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