「君の膵臓をたべたい」2017年の映画

高校生たちの純愛を描いている。

主人公は、すい臓がんで死ぬ。

昨日、ネットフリックスで見た。

非常に感動した。

 

この映画は、初上映の時、映画館で見ている。

まだ、6年前のこと。

そのときは、いい映画だと思わなかった。

見に行って損した気分で帰っている。

 

ところが、昨日観て、

こんな良い映画なのに、

なぜ、分からなかったのだろうと、

とても不思議。

 

人というのは、これほど変わる。

6年経てば、全く別人になる。

 

・・

死が怖いという人がいる。

若者ならしかたない。

まだ、生きることさえ、よく知らないのだから。

 

しかし、76歳私くらいの人生経験を経て、

まだ、死ぬのが怖いというのは、

人生をきちんと生きていないのではないかと思う。

 

人生経験で、すでに、自分とは何か分かっている。

世界や地域社会についても、知っている。

もちろん、死についても。

 

このあと、自分の人生で何が残されているのか。

やり残したことがあるか。

私には、もうない。

少し気になることがある程度。

いつ死んでもいい気分。

 

自分について心残り、ほぼない。

身体の病気は、少し気になるだけ。

痛みがなければ、それで充分。

 

もし、痛みがあるとしても、

服薬で何とかなる。

緩和ケアの先生が書いている。

死ぬ前の苦痛は、ほとんどコントロール可能だと。

ただし、精神的な苦痛は薬で対応できない。

人のこころは、肉体と別物。

 

肉体に原因する痛みがなくても、

精神的な痛みは、容易く生まれる。

 

ある人は、死ぬ前に、苦悶でのたうつ。

 

人は何故、死に対して恐怖を感じるのか。

肉親が苦しむ死に接したのかもしれない。

 

一番大きな要素は、

死によって、この世から消えるという恐怖だろう。

この世から自分というものがなくなるという恐怖。

 

人は意識があるから、生を実感できる。

人の意識は、人の脳でつくられる。

意識は脳によってつくられたものだから、

一生の間変化し続ける。

中には、別人になる人もいる。

 

私の娘(天使)がその一人。

発病前と後では全くの別人。人格が激変。

記憶は一部共通しているが、性格や行動特性は全く違う。

名前が共通しているだけ。

 

人は自分というものは変わらないと信じているが、

実際、大きく変化している。

正確に言えば、一瞬一瞬、変貌している。

当人は気付かないが。

 

自分という固定した性質はどこにもない。

変化し続けるのが人のありよう。

 

特に、老化することで、変化が加速する。

中には痴呆という変化もある。

 

最近知ったことだが、

自分が死ぬというのは、ありえないと、私は思う。

何故なら、もともと、自分なるものはないからだ。

無常であるのが生きものの本質。

 

自分が消えることは、ありえない。

何故なら、もともと、どこにもないからだ。

 

さらに言えば、この世というのが、また、あやしい存在。

この世があるというのは、意識が創り上げているだけ。

たぶん、あって欲しい、という願いが、

脳の中で強く作用して、あると思い込んでいるだけだろう。

 

この世があっても、なくても、

生きている実感だけはある。

美味しいものを食べ、気持ちいいことができる。

生きものだからできる。

たぶん、ネコも犬も。

 

死は気持ちいい体験となるだろう。

これが私の思い。

 

勿論、未体験なので、実体験に基づく意見ではない。

しかし、そう思うしかない、という結論。

 

私の知っている人たちは、すべて、安らかな死を迎えている。

死ぬ前に意識を失うのが人の死。

意識がなくなれば、死を体験することはできない。

死は体験できない故、ないと同じとも云える。

 

さらに、臨死体験がある。

死の直前に、過去記憶のすべてがよみがえるかもしれない。

もっとも良いイメージが奔流となって襲う。

たぶん、死に対して、神からのプレゼントだろう。

一瞬かもしれないが、天国・楽園を実感できるだろう。