皆さん、こんにちは
青海林檎です
今回で最終回、北信愛の話です。
南部家は関ヶ原の戦いに直接参加しなかったものの、最上義光の軍と共に、会津の上杉景勝を討つため、軍の主力を率いて出陣しました。
この当時、東北の大名のほとんどが徳川方についていたため、南部利直も安心していたと思います。
それでも、万が一に備えて、花巻城に北信愛が入り、南部領内の守備を勤めることになりました。
この時、花巻城に残っていたのは、わずかな守備兵と城の雑務を担当する者・農民などだったようです。
ところが、まさにこの時に領土拡大を狙っている大名がいました。
伊達政宗です。
伊達政宗は、過去にも領土拡大を狙った際、一揆勢を煽動して混乱を起こしたりしていましたが、この時も北への領土拡大のために、南部領内での一揆煽動を行ったのです。
伊達政宗との取引に応じて一揆を起こしたのは、和賀忠親
という人物でした。
和賀忠親は、元々花巻周辺の地を支配していた大名でしたが、先の小田原征伐の際に、他の大名が本人自ら豊臣秀吉の元に参陣する中で、名代のみを派遣して済まそうとしたため、豊臣秀吉の怒りを買い、改易されていました。
伊達政宗との取引に応じたのも、かつての旧領を再び手にするためだったと考えられます。
和賀忠親は約1千の兵を率いて、9月20日の夜に、花巻城を攻めます。
この時、城の主力は一揆勢が攻めてきた方向とは違う場所に向かっていたため、反撃が遅れ、二の丸、三の丸が攻め落とされてしまいます。
北信愛も攻められるばかりではなく、直ぐに城の主力を呼び戻しつつ、場内にいた農民も率いて、本丸付近の門を挟んで、一揆勢と攻防を繰り広げます。
夜間の戦闘は敵味方の区別がつかなくなりますが、花巻城は川や濠に囲まれていたため、攻め手の一揆勢の足元は泥で汚れており、城側の守備兵はそれで敵味方の区別をつけていたようです。
北信愛もよく守っていましたが、それでも数の上での不利は免れず、このままの状態が続けば、確実に攻め落とされる状況でした。
ところが、肝心の関ヶ原での戦いが1日で終わり、主力を率いていた南部利直の軍が次の日の朝に花巻城に戻ってきたのです。
予想を超えるあまりにも早い帰りに、一揆勢は数の上で不利になったうえ、花巻城内の守備兵と、南部利直の軍に挟まれる形となってしまいます。
こうなっては一揆勢の負けは確実となり、和賀忠親は命からがら、岩崎城まで撤退していきました。
重要な拠点を守りきった北信愛は、その後も引き続き、花巻城の城主を勤めます。
関ヶ原の戦いの翌年1601年、南部利直率いる軍は、和賀忠親のいる岩崎城を攻め落とします。
城を攻め落とされた和賀忠親は、かつての取引相手である伊達政宗の領内に逃げ込みます。
こうして、花巻周辺の旧和賀領の支配が確実なものとなりました。
ちなみに、一揆を煽動した伊達政宗は、徳川家康との間に交わしていた「百万石のお墨付き」を反故にされ、和賀忠親も逃亡先の陸奥国分寺で、何者かによって暗殺されました。
関ヶ原の戦いの13年後、1613年に、北信愛は花巻城で亡くなりました。
享年91歳とも、93歳ともいわれ、当時の平均寿命が50~60歳だったことから考えると、かなりの長生きでした。
花巻城については名跡継承をしなかったため、南部藩に接収され、北家自体は長男の北愛一
(きた ちかかず)が跡を継ぎました。
生涯、戦の前には観音像を髻の中に忍ばせるくらい、信心深かったそうです。
参考サイト
北信愛
(Wikipedia より)
北愛一
(Wikipedia より)
和賀忠親
(Wikipedia より)
花巻城の夜討ち
(Wikipedia より)
武家家伝_北 氏