『悪魔と戦うキューバ人』:F.ペレス監督の解説 | MARYSOL のキューバ映画修行

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今日、日本初上映となる『悪魔と戦うキューバ人』を国立映画アーカイブで観てきました。

 『悪魔と戦うキューバ人』(1971年)日本で初上映 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

すでにビデオやYouTubeで観ていたものの、スクリーンで見るクリアな修復映像からは今まで見えなかった人達が映っていたし(下の場面)、日本語字幕のおかげで、気に留めていなかった歌詞の意味を知って〈17世紀のキューバ島の住民はこんなことを思っていたのか!?〉と(フィクションながら)新たな発見があり、作品理解が進みました。

      

 

さて、本作は多くの日本人観客にとって非常に分かりにくい内容だと思われます。

公開当時(おそらく’72年)キューバ人にも理解されなかったそうです。

私は、今年に入ってから今日の鑑賞のため、解説記事をいくつも読み直したのですが、難解…。そんなとき、たまたまフェルナンド・ペレス監督が本作について語っている映像に出会い、彼の解説が最も分かりやすく、腑に落ちたので、以下に紹介します。

 

ちなみに、本作はペレス監督にとって長編フィクションの助監督デビューとなった作品。

 

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フェルナンド・ペレス監督による『悪魔と戦うキューバ人』解説

 

本作は、概念的でキューバの観客には理解されなかったが、アレア監督にとっては非常に大事な作品であり、監督の気持ちの揺れが伝わってくる。

 

背景には、革命に対する疑問が蓄積された時期があった。

例えば、アレアが居合わせた〈同性愛者の大学追放〉、グラン・サフラ(砂糖黍収穫一千万トン達成目標)の失敗、フィデルの「チェコ侵攻事件」支持、生産組織の軍隊化、教条的空気など。

 

この映画が示唆する〈キューバ人の戦い〉は〈ドグマ〉対〈自由〉、すなわちキューバの歴史における〈イデオロギー的不寛容〉対〈思想の自由〉を描いている。

優勢になるべきは、真の革命的精神だ。

 

アレアが本作の構想を抱いたのは、1964年始め(Marysol注)。

時代遅れの倫理が、思想や感性の自由を裁こうとしていた。

生の要素に汚染されない〈完璧な人間〉の創造が熱望されていた。

 

ファン・コントレラスは〈完璧な人間〉の真逆のタイプ。

彼は、マヌエル神父が象徴する閉鎖的な世界のドグマと対立し、自由を擁護する。

それだけでなく、感性の自由、キューバ人の官能的な特質も擁護する。

   

ファンは農場主だが、はみ出し者、(道徳・宗教上の)罪人、汚れた者たちの側にいる。

彼らは失うものがない代わりに、隠し事や倫理的な裏表(ドブレ・モラル)もない。

ファンが除け者たちに屋敷を開放し、そこであらゆる感覚が解放され、とりわけ道徳主義のない自由の場となるシーンは重要だ。

そこからファンはすべてを捨て、彼が内に抱える数々の疑問の答えを求めて出かける。

どこへ? なんと売春宿へ。

そこで偉大なる売春婦は、燃え上がる火の中にキューバの過去と現在と未来をサブリミナルに精製して見せる。そして、答えではなく、いくつもの問いをファンに語る。

 

水面から姿を現したファンは浄化されている。歴史の過去、現在、未来を紡ぐために。正々堂々と、明知を得た人のように。ドブレ・モラル(二重道徳)や偏見やドグマとは無縁に。

アレア監督はファンと同化もしくは近しく感じていたと思う。

   

    トマス・グティエレス・アレア監督

 

ポルトガル人(密貿易者)も教会の唱えるドグマとは無縁の人物だが、生き返り、その後に起きることを示唆している。

 

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