『カルロス・フランキ、ある革命の歴史』 2001年 | MARYSOL のキューバ映画修行

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前回はキューバ革命の〈宣伝役〉として内外で活躍するも、1968年の「チェコ侵攻事件」でフィデルがソ連の侵攻を支持したことにより、革命と決定的に袂を分かったカルロス・フランキについて改めて紹介しました。

フランキについてはこれ以上フォローするのを止めるつもりだったのですが、偶然にもその翌日、とても興味深いビデオを発見!

        

タイトル:Carlos Franqui, la historia de una revolución/2001/16ミリ/52

           仮題:カルロス・フランキ:ある革命の歴史

  監督:Michel Le Bayon

 

映像:1/3 https://vimeo.com/168354320 (21分) 地下活動・ゲリラ時代~革命成就

    2/3 https://vimeo.com/168341527 (22分)  革命成就~ミサイル危機、フィデルと共産主義

   

あいにく Vimeoで視聴可能なのは、最初の2/3だけ。最後のパートは見られません。

第一部については、革命前のことで、個人的には目新しい情報はなかったので、紹介は割愛。

 

個人的に非常に興味深かったのが、第二部。

とりわけ、彼が創刊した非合法運動の機関誌「レボルシオン」が、革命後に採った編集方針や廃刊の理由を、本人の口から聞けたのは思わぬ収穫でした!

ミサイル危機下のフィデルの行動も驚愕しました。

 

では、以下の《フランキの発言》を参考に、映像をお楽しみください。 

    注:( )はMarysolの補足・下線は個人的注目点

 

 フィデルは自由主義、民主主義の市民運動の代表として現れ、この運動に参加するようキューバ人を説得した。イデオロギー色は微塵もなかった。

 

(革命勝利後の)最初の問題は、バティスタ政権の罪人の処刑だった。ヒットラーのような独裁者の時代の後だったから、罪人は処刑すべきだと思っていたし、国民の90%は処刑に賛成だった。当時はそれが正義だった。もしくはそう思えた。だがもし今あの時代に戻ったら、ヒットラーでさえも処刑にはしないだろう。なぜなら怖ろしいのは権力だからだ。

 

フィデルは私を何かの大臣にしようとしたが、自分ではどれも適任と思えず断った。

「好きにしろ」と言われ、本当に世界を変えたいなら文化が大事だと思ったし、ヨーロッパやラテンアメリカの文化関係者に多くの友人がいた。彼らは皆、キューバのような小さな島国に対して手を差し伸べてくれるだろう、それは我々の革命にとって素晴らしいことだ、と確信していた。ところがフィデルは「Todo menos eso.(何でも良いが、それだけはだめだ)」と言った。

 

挿入歌:歌っているのは第一部に登場するキューバの女優、ミリアム・アセベドか?

     検閲問題を起こしたパディーリャの詩の一節が歌われている。

       キューバの詩人たちはもう夢をみない。たとえ夜でも

        そしてドアを閉める 木(の扉)がきしんだとき聞かれないように

        その詩人を追い出せ、追い出すんだ そいつは何もすることがない

 

ダヴィンチの地、イタリアの丘の景色を見ながら人生を振り返ると、景色はだいぶ違うが、澄んだ空気はシエラ・マエストラのそれと似ている。向こうで私は世界を、文化を変えたいと思っていた。ここでも同じだ。永遠に対立し闘う文化の世界。なぜならキューバ人の歴史的記憶が取り消されることはないからだ。

 

「フィデルがそれ以外は好きにしろ」と言ったとき、私は(革命)勝利のさなかで敗北を感じた。

私にとっての最初の矛盾は、フィデルの断固とした否定的態度を目の当たりにしながら、その時点で国を出なかったことだ。だが、私は新しい環境で闘う可能性を放棄したくなかったのだ。それで私は「レボルシオン」紙を権力の中にありながらも距離をとる新聞にしようと思った

 映像:非合法新聞から合法的新聞となった「レボルシオン」紙

 

インタビュアー

 貴方の失職はミサイル危機の後ですが、ミサイル危機のとき何があったのですか? 

 何があなたの失職に繋がったのですか?

 

確かに失職に繋がったが、それはある立場の終わりであって、革命の中で批評的な立場をとる新聞はすでに困難を抱えていた。明らかに(新聞の終わりは)ソ連とのいざこざがあったからだ。

(10:01)このカリブ危機が始まったのは月曜日。ケネディのスピーチがあった日だ。その日から徐々に緊張が高まっていった。核弾頭はまだ到着していなかった。ある日、フィデルは危機が本物かどうか確かめに行った。緊張状態にうんざりしたのだ。ミサイル基地はソ連の支配下にあり、キューバには関与する権利がなかった。フィデルは現地に赴き、設備や機能の説明を求めた。その最中、U2の飛行が示されると、フィデルは「U2を撃ち落とすにはどうするのか?」と訊いた。「このボタンを押すのです」。するとフィデルは実際にボタンを押してしまった。飛行機は撃墜された。

 

Q:フィデル自ら撃墜したのですか?

 

その通り。責任ある行為とは思わないが、こうして状況を決定づけた。

 *Marysol注 このインタビューでフランキはフィデルから聞いた話として語っていますが、

          検証してみた結果(文末参照)、フィデルの冗談(願望?)と思われます。

 

日曜日、私は翌日の「レボルシオン」の編集をしていた。そこへ提携する通信社から電信が入った。3行で「フルシチョフ、ミサイルをキューバから撤去するよう命じる」とあった。私は非常に驚き、セリア・サンチェスとフィデルの住む家に電話した。セリアは彼の秘書で、シエラ時代のパートナーだった。

私はフィデルに「この外電をどう扱ったらよいか」訊いた。

フィデル:「外電がどうしたって?」

私はフィデルがまだ知らないとは思わなかった。

「だから外電ですよ」

「どの外電だ?」

「ミサイルのですよ」

「ミサイルの外電?読んでみろ」

そこで私が読み上げた。私はようやく彼が知らなかったことに気付いたが、「どうしましょうか」と訊いた。

「それは君の問題だ」

当然「レボルシオン」は翌日フルシチョフの命令をヘッドラインで載せた。。

もうミサイルはない。取り残されたと知ったキューバ国民は、街頭でデモを始めた。

すると、親ソ派のラウル・カストロたちが「レボルシオン」に責任があると攻撃し始めた

口論が起き、私は「ミサイル撤去を命じたのは我々の新聞ではない。報道は人々の信頼があってのことだ」と言った。

私には、これが「レボルシオン」紙の終わりになること、そして個人的にも終わりになると分かっていた。

別に気にはならなかった。なぜなら根本的には良い終わり方だったからだ。

キューバ国民の側からすると、60年代に生まれた社会主義的エモーションの終焉だった。米国の封鎖を前に、もうソ連を信じることはできなかった。

フィデルにとっては、関係を継続する別の方法を見つけることを意味した。

実際、フィデルが欲していたことが生じた。フルシチョフはフィデルを招待し、フィデルのソ連への旅が実現した。そして最初の砂糖の協定ができた。前は米国に依存していたのが、ソ連に頼るようになった。

最大級に悲劇的な歴史だ。キューバ革命は砂糖黍(依存)に反対していたのに、あいかわらず砂糖の島、隷属の島だ。なぜか? 第一に、砂糖黍は広大な土地、最上の土地を必要とする。次に,産業だ。150 軒の工場が精糖に従事している。これらの工場は一年に4か月のみ稼働し、8か月は停止状態だ。生産性がない。また、砂糖黍は膨大な人手を必要とし重労働だ。そして交通網。砂糖黍を製糖工場に運ぶには鉄道、道路網が必要だ。工場から港へ、港から海外へ。そして大きな市場を必要とする。最初はスペイン、次に米国、そしてソ連。この砂糖モノカルチャーが創り出すインフラからは、封建制、軍国主義が生じる。現実の現象だ。

 

私はフィデルが最初から共産主義者-私の解釈する共産主義という意味で-だったとは思わない。だがインテリで、第三世界における絶対的権力の新方式を発見した。唯一の絶対的権力を提供するのが共産主義なるものだった。フィデルは前から共産主義者だったか、それとも後からそうなったのか…。(この問いは)私に深い熟考を促す。

 

1961年、フィデルは「私はマルクス・レーニン主義者である。これまでもそうだったし、これからもそうだ」と言った。皆が驚いた。「私は共産主義者だったことはない」「これは椰子の葉のようにオリーブグリーンの革命だ」「テロなきパン」「パンと自由」などと言っていたからだ。

私はありのままを見る人間だ。私は長いあいだ考え続けた。私が辿り着いた結論は―

1953年、ラウル・カストロはルーマニアを訪れ、有名なルーマニア・グループの一員になる。そこには、アルフレド・ゲバラ、フラビオ・ブラボ、バルデス・ビゴ、その他の共産主義グループやキューバ人以外もいた。キューバにやって来た彼らをフィデルはモンカダに連れて行った。そのときフィデルはレーニンの本も持参していた。その後ピノス島に送られ、収監中レーニンなどについて深く学習した。

1958年、フィデルが第二戦線にラウルを送ったのは、弟だからだけでなく、ラウルが共産主義者だったからだ。

我々はハバナに凱旋し、権力の座に就いた。我々は一緒に米国を訪問したが、受け入れられなかった。だが、フィデルは米国のゲームをよく理解していたと思う。1959年末、革命の中で共産主義者が台頭し始め、その後セクト主義の問題が起き、フィデルは共産主義者たちに権力を渡す。だが1961年、ある日フィデルは私に言った。「いいか、忍耐強くなければいけない。なぜなら社会主義について知っているのは、キューバの共産主義者(PSP=人民社会党)だけなのだから。我々は社会主義を実践しようとしているのだから、彼らから教えを受け、導かれねばならないのだ」。

 

MarysolによるU2撃墜に関する検証メモ 

参照文献:「核時計零時1分前 キューバ危機13日間のカウントダウン」

10月27日(土曜)

午前2~5時 (時間はキューバ時間)

フィデル、ベダードのソ連大使館でフルシチョフ宛に(米国の先制攻撃を許さぬよう)手紙を書く。

 

午前9時12分 

アンダーソン少佐の操縦するU2偵察機がソ連の防空システムにキャッチされる→各対空部隊に通報

 

午前9時22分 

U2機、カマグェイ上空を通過、〈標的第33号〉に指定される。

 

午前10時16分

エル・チコ(※)の地下指揮所で〈標的33号〉を追跡していたソ連将校2名が(大将不在中だった為)カマグエイに本拠を置く対空師団に「標的33号を破壊せよ」と暗号化された命令を送る。 

※  ソ連軍参謀本部はハバナの南西、エル・チコにあった。

 

午前10時19分

命令実行

 

午後5時40分ごろ

ケネディ、「U2撃墜」の報を受け、衝撃を受ける。

 

モスクワ時間28日(日曜)午前1時ごろ(キューバとの時差8時間)

 ハバナのソ連大使館からフィデルの伝言を伝える電報が届く

 フルシチョフは「カストロが先制核攻撃を求めている」と理解

 約40分後、アメリカ軍偵察機がキューバ上空で「おそらく墜落した」というペンタゴンの発表を知る。

 キューバ駐留ソ連軍の指揮官には、自衛のための反撃は許可したが、武装していない偵察機を攻撃せよとは命じていなかった。 

 

土曜夜 

 フィデル、ソ連の同志がアメリカの偵察機を撃墜したことを喜ぶ。

 来訪したソ連大使に、キューバ当局が飛行機の残骸とパイロットの遺体を回収したことを伝える。

 ソ連大使は、U2はソ連軍ではなくキューバ軍に撃墜されたのだろうと推測。

 

28日(日曜)モスクワ時間午前10時

 フルシチョフは、キューバ駐留ソ連軍総司令官にメッセージを送る

 「平和的手段によってキューバ侵攻を回避する合意が成立しつつあるこの時期に、アメリカのU2偵察機を撃墜したのは早計だったといわざるをえない」。